木下闇
あの時。恋文を拾ってもらった日の別れ際、京楽は確かに『今日は早く休んだ方がいいよ』と言って去っていった。慈愛に満ちた声が頭の中によみがえって、浮竹は思わず呻く。
浮竹自身に知られぬよう、こっそりと気遣うところなど実に彼らしい。優しく思慮深い男だということはよく知っている。
――だが、それとこれとは話が別だ。
スッと目の据わった浮竹に、同室の男は不思議そうな表情を浮かべておそるおそる問いかけた。
「どうしたんだよ浮竹。お前、顔が恐いぜ?」
夜半過ぎになって自室に戻ると、そこには灯りもつけないまま、正座をした浮竹が京楽を待ちかまえていた。
一瞬目を見張った京楽は、やがて何かに気付いたように、ああと天を仰ぐ。
「なあんだ、バレちゃったのかい」
「どういうことだ、京楽。お前、逢い引きに行ってたんじゃなかったのか」
最初は、女性と会って帰ってきてから香をたいたのかと思った。だが考えれば考えるほど、そんな時間的余裕がないことに気付く。どう見ても計画は浮竹を寝かしつけるところから始まっていた。おまけに、明け方外から帰ってきたという細工までする始末だ。その緻密さは、京楽春水という男にぴたりと重なる。
浮竹は、彼がとった一連の行動の真意を知るまでここから動かぬつもりだった。既に手は回していて、京楽の同居人には部屋替えを快諾されている。
いや、真意はわかっている。浮竹の不眠を知った彼のちょっとした親切なのだろう。だが、それを彼自身の口から説明されるまではこちらも引くわけにいかない。浮竹が気に病むことのないように小細工までして、そんな気遣いをされる覚えはない。
精一杯真剣なまなざしで見つめると、京楽は「まいったね、どうも」といつもの口癖を呟いた。
「キミはさ、ボクが本当に結婚を控えている女性と会ったりすると思うかい?」
「やはりそこから嘘なんだな!」
「声をかけられたのはホントだよ。どうしても会ってほしいと言われたけど、彼女の人生をボクは一緒に背負ってあげられないからね」
「…………なぜ」
「彼女のことを愛してはいないからだよ」
「そうか……」
ただの同情で口を挟めるほど、京楽の身分は低くない。相手が京楽自身を求めているのならなおさらだ。彼女自身も、京楽の助力なしに家を捨てる度胸がなかったのだから、いずれ嫁ぎ先の家に馴染んでいくしかないのだろう。浮竹はその件に関しては納得した。
だが、それならなぜ浮竹には同情を寄せるのだ。
「あのとき、文を渡そうとしてキミの目の隈に気付いた。消せるものならそうしたかった」
「…………京楽……」
静かな声で晒された京楽の、めったに見られぬ感情を露わにした顔は、浮竹をなおも困惑の渦に陥れた。
そんな真摯な言葉を貰えるほど、浮竹と京楽は親しくない。常に主席と次席を争ってはいるが、互いをよき好敵手だと思っているだけのただの級友に過ぎない。
他の者よりはほんの少し話が通じ、他の者よりも大いに剣を交わすのが楽しいだけだ。
京楽はいままで、たまたま浮竹の隣りにいたときには健康状態に気を配ってくれたが、こうして自ら進んでお節介をするような輩では決してなかった。
彼に行動を起こさせるほど、あの日の自分の姿はみすぼらしかったのだろうか。眠れぬ日が続いたせいか記憶は朧気で、自分がどんな顔をしていたかなど今の浮竹に思い出せるはずもない。
自嘲気味に睫をふせると、京楽がことのほか焦ったような声音で問いかけてきた。長い付き合いというわけではないが、そんな彼の声を聞くのは初めてだったので少し驚く。先ほどから初めて尽くしだ。
「ああ、ごめんよ。こんな風に言うべきじゃなかった。キミは同情されるのが嫌いだろ?」
「……どうかな」
浮竹は首を傾げた。
周囲の浮竹に対する反応は概ね二つに分かれる。何も考えず、浮竹の病弱な身体についてあっさり口に出す者もいれば、情けをかけるのは浮竹の自尊心を傷つけるのではないかと気を遣ってくれる者もいる。
だが浮竹にとって、両者はそれほど違いがあるものではなかった。
「誰も自分の身に起きたこと以外は、どんなものなのだか分かるまいよ。病気も、怪我もな。同情というのは、不幸が自分の物ではなかったことに喜び相手をせせら笑うのではなく、己に理解の及ばぬ事態を必死に分かろうと努力する姿勢だと俺は思っている」
「努力、ねェ」
「少なくとも俺は、俺の身を案じて皆が発した言葉については、ありがたく思うよう訓練してあるさ」
「……訓練なのかい」
「ああ。そうでないと疲れてしまうからな。他人の言葉に振り回されている余裕はないんだ、この身体には」
言葉というものは、軽々しく発せられるわりにどんな刀よりも鋭い凶器になることがある。身体の弱い浮竹にはその切っ先を真っ正面から受け止めるだけのゆとりがない。憤ったり落ち込んだりすることは、精神面の疲労を引き起こし、結果、身体面の故障を呼び込む。
浮竹とて、幼い頃からこのように涼しい顔をしていられたわけではない。
だが何回となく同じ事を繰り返すうち、精神的な強さを持たなければ、この治癒する見込みのない病とは上手く付き合っていけないのだと悟った。
生きていたいならあらゆる物を受け止め、そして流せるようにならなくてはならない。
浮竹は、他人からよく褒められるように、性格がいいわけでも我慢強いわけでもない。浮竹はただ彼にとって生きられる唯一の道を選択したにすぎないのだ。
今まで、『他人』にはこんな内情を話したことがない。
父ならば、母ならば、弟・妹たちならば、話さずとも浮竹がそう努力していたのを知っているだろう。一緒に苦しみを乗り越えてきた彼らならば。
けれど、出会ったばかりの知人や、級友程度の友人には話したところで通じまい。ならば何も言わずに笑っていた方がよい。
そう思って生きてきたのに。
何故この男には話してしまったのだろう。
京楽を僅かなりとも騙すのが嫌だったからかもしれない。「いい人」なんて評価で二人の間を終わらせたくなかったせいかもしれない。
たとえ京楽に軽蔑されようと構わなかった。どうしても自分の本音を知ってほしかった。
そこまで考えて、浮竹は愕然とした。そう思える相手に出会えたのは初めてだったのだ。
――ああ、出会ってしまったのだ、とそう思った。
気持ちの押しつけが相手にどれだけの重力をかけるか、浮竹は誰よりよく知っている。特に京楽のような聡い人間ならばなおさらだろう。
だが、理性が働かなかった。これは自分のわがままで、京楽に押しつけるべき感情ではなかったはずなのに。
後悔はしないけれど、京楽に重い荷を背負わせるのには躊躇いがある。内心、戦々恐々としていると、京楽はうんと一つ頷いてにこりと微笑んだ。
「なるほど、もっともだね」
「えっ…」
その笑顔に見ほれる傍ら、思いがけぬことを聞いたかのように、浮竹は目を丸くした。
どうやら自分は、京楽という男をやや見くびっていたらしい。彼はどんな事情であれ、他人をよく理解する能力を保持していたのだ。
それとも。浮竹は思い立って訪ねる。京楽はこのような理屈を聞き慣れているのだろうか。