木下闇
「――もしやお前の身近にも、病を抱えている者がいるのか?」
「いいや。何故だい?」
「これは……あまり他人に話して納得されるような話ではないからな。もしやと思ったんだ」
「そうなのかい? とてもわかりやすい理屈だと思うけどねェ。ボクなんか、キミのそのしなやかな強さはそうして構築されてきたんだなァと思ったよ」
「…………そう、か」
こんな自分を京楽は強いと言い切ってくれた。浮竹の隠していた一面を知ってなお、精神的な強さを持っているのだと。
やがてゆるゆると喜びが浮竹の全身を満たした。剣の授業で、師範に技術を褒められたときとは全く別の種類の悦びだ。
浮竹はその感情のままぱあっと表情を明るくすると、ことんと頭を下げる。
「ありがとう、京楽」
「いやいや。ボクはただ本音を言ったまでだよ」
さきほどの狼狽えぶりはすっかり身を潜め、京楽はいつもののほほんとした顔つきで軽く手を振った。
浮竹も満足して微笑み返すが、しかしこれだけは言っておかなくてはならないということに思い至り、慌てて顔を引き締める。
「だが、嘘をついていたのだけは頂けないな。逢い引きのために部屋を交代したと言ったが、結局俺の身を案じてのことだったんだろう?」
「……うん。キミがこんなことくらいで躓くのは、一応好敵手のボクとしては許せなくてね。これっきりだよ、誓う。もう二度とキミを騙そうだなんて思わないよ」
「ならいい」
今度やったら本気で怒るからな、と言う浮竹にはやや迫力というものが欠けていた。
仕方がない。あまりにも嬉しくて、地に足がついていない心地だったのだから。
この一夜で浮竹にとって京楽は、今まで諦めて胸の内に押しとどめていた自分の感情を、ぶつけることの出来る唯一の相手となった。
浮竹は他人を羨んだことはない。上を見てはきりがなく、下を見るには忍びない。ただ自分を自分として歩いていくだけで精一杯だった。
周りにいる友人は、浮竹に優しい面だけを向けてくれる者が多く、浮竹もそんな彼らを大事だと思ってきた。けれど、たとえ何かのきっかけで彼らが離れていったとしても、その事実を受け入れることに浮竹は何の苦痛もなかった。仕方のないことだと、考え方の相違なのだと。
彼は諦めることに慣れすぎていたし、無意識に行ってきたその選択に今でも後悔は微塵もなかった。浮竹の望みはひとつ、出来る限り長く生きていたいということだけだったから。
けれど今日、たった一つだけ例外が出来た。
自分が苦しもうと胸を締め付けるような悲しみに襲われようと、京楽を失うことには耐えられそうにない。相変わらず彼が側にいると何故か動悸が激しくなるけれど、それを差し引いても彼の側にいるのが嬉しかった。
京楽もそう思っていてくれるのが分かる、その幸福感は計り知れない。浮竹は胸の内に広がる充足感にふと、子供の頃のある記憶を思い出した。
「昔……発作を起こして床に伏せているときに」
「うん?」
「ある程度回復してくると、どうしても退屈になってな。枕元にこおんなに本を積み上げて、片っ端から読もうとした時期があった」
こおんな、というところで手振りを加えて、実際の記憶よりも随分大きな山を作ってみせる。京楽は「なるほど」などといって神妙な顔をして頷いている。
浮竹は笑って先を続けた。
「だが多少回復したからといって、起きあがるのが精一杯の身体で長時間本など読めるはずもないんだ。数頁読んでは内容が脳に入っていく前に本を置くはめになる」
「そうだろうねェ」
「山と積まれた本を見て、これを全部読み切れる日が俺には来るのか、と思ったよ。読みかけのままの本だけを残して自分は消えてしまうのじゃないかってな」
「…………そう」
自分の経験だけに過酷な内容をたんたんと話す浮竹に、京楽もまた穏やかに相づちだけをうつ。
「でも結局、俺はその本を全部読んだ。普通の奴より時間はかかったかもしれないけど全部読み切った。そして今また新しい本を沢山読むことができる」
「それはキミが、生きることを決して諦めなかったからなんだろうね」
ああ、どうしてこいつは、こんなにも俺のことをわかってくれるのだろう。
浮竹はいっそ泣きたくなった。こんな存在を得てしまったらもう、自分は他の誰も欲しくなくなってしまう。
人を好きになるってこういうことか。
他の人間と彼との間に明確な線が引かれる。
失いたくないんじゃない、欲しいんだ。
京楽の何もかもを。
浮竹は幸福と同じ速度で訪れた苦しみを、とても大事な物のようにぎゅっと抱き込んだ。
誰かを特別に思うことなんて、自分には永久にないのかと思っていた。京楽に出会えたことが、自分にとって良かったのか悪かったのかはわからないけれど、これでまた前へ向かって歩いていける。
京楽の隣りで生きていたいと思える。
大切な友、大切なひと。
お前となら、どんな困難な道も真っ直ぐ進んでいけそうな気がするよ。
いつか、それを証明する日がくるだろう。
浮竹はそうっと胸元を押さえた。心に点った暖かな光を決して消さないように、目の前の男の姿を煌めくその翡翠の瞳に映し込んで。
諦めない、くじけない。
密かな決意は隣りで微笑む京楽に、伝えるべくもないけれど。
きっちり正座していた足を崩すと、張りつめていた気が緩んで思わず大きな欠伸が出た。忘れていたが、時刻はもう日を跨いでいるのだ。
おやおやと肩をすくめた京楽が、部屋の隅に寄せてあった布団を敷いてくれる。ついでとばかり隣りに自分の布団も持ち出してピタリとくっつけると、彼はそこに横たわって浮竹の名を呼んだ。
浮竹も目を擦りながら、もそもそと毛布の中に潜る。
「じゃあおやすみ、浮竹。良い夢を」
「ああ。お前もな、京楽。……おやすみ」
暗闇の中で目を閉じると、隣りの霊圧に覚えがあることに気が付いた。ああ、七日間の眠りを守ってくれたのは彼なのだと、今更ながら深く実感した。