習作
取り敢えず丁寧な物言いに飽きたのか、単にそれ以上持続することが出来なかったのかは定かではないが、少しの苛立ちを滲ませた声は普段の義王のそれだった。それに幾許かの安堵を覚えはしたものの、一度は緩んだ拘束が再び強まったのには驚いた。ぎゅうぎゅうと背中から抱きしめられればそれなりに苦しいのは道理で、千馗はさてどうしたものかと途方に暮れた。
義王の言い分もわからないわけではない、むしろ同じ事をつい先日、燈治にも言われたばかりだ。但し、燈治は義王ほど強引ではなかったし、あくまでも『お願い』されただけであって命令された訳ではなかったのだが、。
――何故、彼らはこんなものを見たがるのか。
単に物珍しさがあるのだろうか。それとも、他に何か理由があるのだろうか?
千馗にとって、秘法眼は決して喜ぶべきものではない。常人には見えぬものを見てしまうこの眼の所為で、哀しい思いをした事は一度や二度では聞かないだろう。それでも、今は――花札を巡る騒動を通じ、自分を奇異なる存在としてではなく、友人として接してくれる仲間が出来たことは喜ぶべき事実だ。だが、だからと言って秘法眼を見せろと言われても、はいそうですかと頷く訳にはいかない理由が千馗にはあった。
単に、秘法眼を使って見るには、人間と言う存在が持つ情報量が多いことも理由のひとつだ。呪言花札がより多くの情報を求めて人に憑くことからもわかるように、人間は情報を詰め込めるだけ詰め込んだ存在である。その為、人間を見る際に秘法眼を使うと与えられる情報量が多すぎて頭痛を引き起こすことが少なくない。今では完全に通常視界と秘法眼の切り替えが出来る為、眩暈や頭痛に悩まされることも亡くなったが、幼い頃は日常的に秘法眼を使っていた所為もあって千馗は良く熱を出して寝込んでいた。
故に、出来ればひとを見る時に秘法眼を使いたくない、と言うのが理由のひとつ。
そしてもうひとつはと言えば。
「・・・・気味悪いぞ」
「あ?」
ぽつりと千馗が零した言葉に、義王が僅かに首を傾げる。言われた意味がわからないとでも言いたいのだろう。察しの悪い奴め、と声には出さずに呟いて、千馗は大きく息を吐いた。
「義王、ちょっと腕緩めろ。むしろ離せ」
「やーだね。見たら離れてやる」
「そうじゃなくて、・・・・振り向けないだろう」
僅かに揶揄の色を含んだ義王の言葉に肩を落としつつ、千馗は伏せた瞼の透き間で秘法眼を発動する。出来れば情報量の多い人間を見たくはないのだけれど、と嘯きつつも首を曲げて肩越しに振り返れば、その気配に気付いたものか義王の腕が僅かに緩んだ。
額の中央の神経を集中した刹那、視界が小さく二重にブレる。きゅうと目頭が熱くなるような、瞼の裏側を温い水に撫でられるような奇妙な感覚を覚えながら、千馗は横目で睨むようにして背後の義王をちらりと見た。
刹那、視界に広がるものは膨大な量の、情報。
色濃い炎に似たそれが千馗の視界を緩やかに埋め尽くし、陽炎のようにゆらりと揺れる。しかしその陽炎は先刻の箱から立ち昇ったか弱いものとは大きく異なり、正に燃え盛る炎の如く鮮明な輪郭を描き出していた。
真正面から義王を見ることはしない。視界に過ぎった彼の『情報』だけでも千馗の頭蓋の奥には鈍い痛みが僅かに疼き、思わず小さく頬が歪む。一応、秘法眼の能力をセーブしたつもりではあったのだが、瞬間的に目の当たりにした情報量の多さは千馗の瞳を否応なく刺し、頭蓋に鈍い衝撃を与えるには十分すぎるものだった。
ゆらり、眼前の情報が大きく揺れる。情報の色が濃く見えるのは、それだけ義王の持つ情報が多いことを示し、その揺らぎは彼の感情のざわめきを表す。千馗と視線が交錯した刹那、義王の持つ情報はざわりと大きく揺らめいた――それはつまり、動揺の表れだ。
無理もない、と声もなく独りごち、千馗はすうと瞼を伏せる。集中を解けば瞼の裏に篭っていた熱はするりと消えて、再びゆっくりと開いた視界には見慣れた世界が広がるばかりだ。
伊佐地曰く、秘法眼を鍛えればより正確に情報を読み取れるらしいのだが、――現在の千馗にとって、それは余りにも過酷な話である。どうやら千馗の目が読んでしまう情報は、伊佐地やいちるよりも多いらしい。それだけ感度の良い眼を持っている、と言うことなのかもしれないが、それ故に千馗の脳が負う負担も大きいのだろう。洞の探索に於いては充分役に立つこの眼も、人を見るには適さないと言うのだから皮肉な話だ。
尤も、それ故に秘法眼と通常視界の切り替えを覚えるのが早かったのも事実なのだけれど。
「・・・・ふぅ」
溜息をついて瞬きを繰り返し、千馗は知らず緊張して強張っていた肩の力を抜く。疲れた、と小さく呟いた言葉に、びくりと己の身体を抱く腕が戦慄くのがわかった。義王の腕は大分その力を緩めてはいるものの、未だ千馗の身体を抱きしめたままだ。
――男の身体を抱きしめたって楽しくもなんともないだろうに。
「ま、そういうわけだ」
突き放すように言って、千馗は小さく笑う。義王の顔を見ようとは思わない、――否、見ることが出来なかった。
「言っただろ? 気味悪いって」
「――――」
義王は、答えない。僅かに息を呑む気配はあるが、それだけだ。或いは応えるべき言葉を捜しているのかもしれないが、屹度吐き出される言葉は肯定であろうと千馗は自嘲する。
千馗が人前で、可能な限り秘法眼を発動しないもうひとつの理由――それは、秘法眼を使うに際し、瞳孔の形が変わってしまうことにあった。
秘法眼の発動に際し、起こる現象は様々であると言う。例えば封札師の試験で一緒になった雉明零は、一切の変化なく秘法眼を使うことが出来たし、武藤いちるは僅かに瞳の色が明るくなる程度で然したる変化は見られない。しかし千馗の秘法眼は、その発動に際して虹彩部分は淡い赤銅色に発光し、瞳孔は日中の猫のそれのように縦に裂ける。何故そんな現象が起きるのかは千馗自身にも、況してやその状態を見た伊佐地にもわからないらしい。
だが、理由がどのようなものであれ、千馗にとっては自分の瞳が不気味であると言う現実に変わりはない。到底ひとのものとは思えぬ双眸を他人の目に晒す訳にも行かず、探索時でさえ仲間と隣り合わせに移動することを拒んできたと言うのに、。
「・・・・・・・・、ねぇよ」
「え?」
もう嫌われたかな、と自嘲とも何ともつかぬ諦観に千馗が項垂れていると、不意に義王が低く呻く。同時に再び身体をぎゅうと抱きしめられて、千馗は思わず戸惑った。
はっきりと真正面から秘法眼を使って義王を見たわけではないが、縦に瞳孔の裂けた己の瞳を彼は確認した筈だ。化物、と罵られなかったことはある種の幸運であったのかもしれないが、義王が激しく動揺したことは事実である。或いは声にならない位の驚愕だったのかも知れないと思ったのだが、
「気持ち悪くねぇよ」
千馗の予想とは裏腹に、改めて聞こえた義王の声は普段通りのふてぶてしいもので、逆に千馗を戸惑わせた。予想外の展開に一瞬脱力した隙を突かれ、くるりと身体を反転させられても、真正面から己を見据える義王の視線に千馗は戸惑うばかりである。
――あのひとならぬ瞳を見ても尚、何故義王は自分を恐れないのだろう。