運命論
一週間、そこまでハッキリとした期限を決めて悟空を八戒と悟浄のとこに預けたのには、当然ながら理由があった。
往復の時間も計算してきっかり一週間、寺を離れなくてはならない仕事がはいったからだ。
連れて行って欲しそうな子供を置いていくのだって、べつにうるさいだとか面倒だとか思ったからでの行為ではない。今回、赴く予定となっている寺院の大僧正が妖怪嫌いで有名で、そこに悟空を連れて行くよりはという親切心からの決断に過ぎなかった。
それなのにあの猿ときたら、やれ捨てる気だとか、俺を里子に出す気なんだとか(そもそも里子なんて言葉をどこで覚えてきたのか)、嫌いになったのか、邪魔なのかとピーピー騒ぎたおし、三蔵がブチ切れそうになる血管を押さえながらも一から事情をくわしく教え、納得させるまでに三時間もの時間と多大なる労力を無駄にさせた。
三時間だ、気の長い方ではないと自覚のある三蔵にそこまでさせておいて、別れの朝、八戒と悟浄に囲まれた悟空はまだ泣き出しそうな顔をしていた。
そこで悟空がまた駄々をこねたなら、もう我慢ならんと殴っていただろう。
しかし、悟空は笑った。
泣き出しそうな顔で必死に笑顔をつくり、震える手を一生懸命振って、
「いってらっしゃい」
なんて言って。
これならばまだ駄々をこねられた方がよかった。そうすれば、こんな気持ちにならずに済んだはずだ。
こんな。
一週間だったはずの公務が一日延び、悟浄の家についたのは八日目の昼だった。
出かける前に悟空とした七日で帰ってくるという約束は破ることになってしまったが、悟浄と八戒がついているし大丈夫だろうとたかをくくっていたのは事実だ。
だから、悟浄の家の扉を叩いたとき、慌てた様子で飛び出してきた八戒を見て、ヒヤリと血の気のさがる思いがした。
「あ、……さ、三蔵」
「……なにかあったのか?」
いつもニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべている八戒の表情が硬い。それに、ここに三蔵がいるにも関わらず、あの悟空が飛び出して来ないことにも違和感を感じた。
「何があった」
心のどこかで、すでに何があったのかの予想はついていた。ほとんど確認するためだけにした問いに、八戒は言いにくそうに俯いてしまう。
「実は、……今朝起きてみたら、悟空がいなかったんです」
「やっぱりか。……悟浄はどうした」
「探しに行ってます。もしかしたら戻ってくるかもしれないと、僕はココに残ったのですが」
口ぶりからして、悟空はまだ戻ってきていないのだろう。
手間かけさせやがって……、と小さく呟いて舌打ちする。と、うつむいていた八戒が顔をあげた。
「怒らないであげてください。……悟空、本当にいい子であなたの帰りを待ってたんですよ」
「……そうか」
そんなこと言われなくても解っていた。なんせ、自分がぐずる悟空に「七日で帰る」と約束したのだ。あの素直で盲目的なほど従順な子供は、その約束を支えに大人しく三蔵の帰りを待っていたことだろう。
「けど、昨日の夜から少し様子がおかしいとは思っていて……」
目を離すべきじゃありませんでした、と八戒は眉をひそめる。面倒見のいい彼のことだ、きっと人一倍責任を感じているのだろう。しかも相手が、猫かわいがりしている悟空だからなおさらか。
「気にするな。……悟浄が帰ったら言っておけ、もう探さなくてもいいと」
「……え?」
「世話になったな」
いい置いて、クルリと踵を返す。さっさと歩き出した三蔵の背中を、八戒の声が追いかけてきた。
「悟空は、……ただ貴方の傍に居たいだけなんですよ」
そんなこと、言われなくても知っている。
悟浄の家をあとにしてから、三蔵はどこを目指すわけでもなく歩き出した。
不思議な話だが、こうやってあてもなく歩いていると、いつもなぜか己は悟空のいる場所にたどりつけるのだ。
案の定、ただブラブラと歩き出して一時間ほど経ったころ、森の入り口で蹲っている小猿を発見した。
わざと足音を殺すことなく近づくが悟空は蹲ったまま顔をあげない。異様に耳の良い悟空が、ここまで近づいた三蔵に反応しないなんて珍しいことだ。
歩きつかれて眠っているのだろうか。
そんなことを思いながら傍まで近づいて、三蔵はすぐに悟空がコチラに気づかなかった理由を察した。そして、その理由にひどく呆れた気分になる。
「おい、俺はあの家で待ってろと言わなかったか」
わざと少し大きめな声でそう言えば、今やっと三蔵の存在に気づいたらしい小さな影が勢いよく顔をげる。
予想していたとおり、悟空の顔は涙でドロドロだった。大きな目は涙の膜がはって充血し、鼻の頭と頬は泣きすぎで真っ赤に染まってしまっている。しかも、ヒグヒグと盛んにしゃくりている小さな身体は、見ていて可哀想になるほどに引きつっていた。
「さ……、さっ、ん…ぞっ…」
「何ピーピー泣いてやがんだ。汚ねぇツラしやがって」
「なっ……、ない、てッ、ねぇ!」
言ってる傍から新たな涙が頬をぬらしていく。しかも、無理に泣き止もうとしたせいかしゃっくりが酷くなり、うめき声なのか話し声なのか判別できない言葉をわうわうと叫びだしてしまうではないか。
まるきり幼児の泣き方だ。
呆れた気分になりながらも捨てて帰るわけにもいかず、とにかく落ち着くまで待つしかないかと煙草を取り出して火をつけた。
どれくらい時間が経ったころか。やっと悟空の様子が落ち着きはじめたのを確認して、煙草の火を消し、もたれていた木から背中を離す。
かなり盛大な泣き方をしたせいで疲れたのだろう。小さな子供のようにぐずるだけになった悟空に近づいて、子どもが腕を伸ばせばすぐに届く位置であえて立ち止まった。
目の前でうつむいたまま盛んにしゃっくりを繰り返す悟空に声をかける。
「なんでひとりでこんなところまで来た」
自分にできるかぎりの優しい声で問いかけたつもりだ。どうやらその三蔵の意図はうまく悟空に伝わったようで、泣きはらした子供がやっと顔をあげた。
「さ…ッ、三蔵、…帰って、こ、こなッ…かった」
「一日二日、公務が延びることがあると、お前も知ってるだろ」
これがはじめてというわけではない。今までだって何度もこういうことがあったはずだ。
「で、もッ、約、束…したっ!」
生意気にも睨みつけてくる悟空を睨み返せば、また泣きだしそうに表情を歪めて唇を噛むものだから、まいった。
とりあえずこれ以上泣かれるのはごめんなので話題を変える。
「で、なんだ? お前は俺が約束通りに帰ってこなかったから、こんなところまでひとりで散歩にでも来たのか」
「ち、がうッ…!」
「じゃあなんだ」
問えば、また悟空はボロボロと涙を流し始めた。うーうー唸りながら左腕で何度も顔をぬぐい、まるですがるように小さな手がこちらに伸ばされる。
いつもなら避けたであろうその接触を、今日はそうすることができなかった。
悟空自身もまさか掴めるとは思っていなかったのだろう。自分で伸ばしてきたクセに、その手が三蔵の法衣を掴んだことに驚いて小さく揺れる。
数秒そのままで、いつまでも振り払われないことを確かめると安心したのか、三蔵の法衣を握る手にギュッと力がこもった。