白い丘
第四章 ポセイドン
つながれ、うなだれている男の姿を海皇は見詰めていた。
幾日も鞭で打ちすえられて、それでも、自分に従わぬのは何故だろう?
「アクエリアス、カミュよ…」
男は顔を上げる、不思議な赤い瞳に自分が写って入るのが見える。
「ポセイドン…」
血に汚れた肩、胸。無数にあざのついた腹部、かすれた声。
何故。
ここまでされて何故、自分に従うとこの男は言わぬのだろう?
「己が身、大切ではないのか?」
痛いほどに真摯な目が、カミュを見る。
「それほどに、人間が大切か? 愚かにも、自分たちの住み家を汚し、母なる海をも汚染して行く人間が、その身を犠牲にせねばならぬほど大切か?」
地上に降り続く雨を少しでも減らせるのなら、そう言って、アテナは自らを犠牲にして地上の人間たちを守ろうとする。
「私は、愚かな人間共を一掃し、地上に聖なる世界を造ろうというのだぞ」
「愚かかも知れぬ」
何を思ってかカミュは、苦しげに笑う。
「弱く惨めな生き物かも知れぬ、神から見れば虫けらのようなものかも知れぬ、だが、愚かなものでも愛し合い、必死に生きる彼らを、見殺しには出来ぬ」
「何故だ」
「私も人だから、そしてあなたも人ではないのか?」
「何!」
ポセイドンの手にした三叉の戟から、光が飛ぶ。
「神に向かって人とは」
衝撃に震えながらカミュは言った。
「…神ならば知らぬ、しかし人では、人の暮らせぬ海は寂しいだろう」
戟を握るポセイドンの、手も震えていた…。
「何故、私に従わぬ?」
「私は、アテナの聖闘士だ」
「では、ただの人間なら従ったのか?」
「……私があなたを信じれば、従っただろう」
───寂しいだろう
幾つもの海岸を、津波で洗った。
河川を氾濫させ、幾つもの町を押し流した。
今は、大地を覆う四十日と四十夜の雨を降らせている。
そして、地上を守るアテナの聖域へ、宣戦布告──。
地中海の海商王、ソロ家を継ぐものとして生まれ、欲しいものは何でも手に入った。
そして、自分は神でさえあった。
それでも、本当に欲しい物は、手に入れられずにいる。
本当に欲しい物?
それは…。
世界か。
自分を拒んだアテナか。
……この聖闘士か。
「アテナを信じているのか?」
カミュは無言で頷いた。
「アテナの何をだ?」
海皇ではない少年の瞳をカミュの瞳が見透かすように見詰める。
「愛、万物を愛する愛だ。人間には持ち得ないだろう大きな…」
海皇の戟の放つ力に、カミュの両腕の戒めが弾け飛んだ。
「──そんな物は知らない」
「ポセイドン…?」
「そんな物は、持っていない、たぶん」
戟が、カミュの胸を指す。
「お前は、持っているのか」
「──人の持つぐらいはあるかもしれない」
「私に渡せ」
言い放ったその顔を、カミュは見詰める。
「…海皇よ」
そう呼ばれ、少年は唇をかむ。
カミュはティティスに聞かされた少年の名を思い出す。
「ジュリアン・ソロ」
名を呼んで。
カミュの体が青白くオーラを上げる。
「私は不器用で、弟子たちにも、そんなものは教えられなかった」
三叉の戟の傍らを抜ける──。
そしてカミュは、ただ、少年の体を抱いた。
「アクエリアスよ、お前が生きられるのはこの海界の中だけだ。私に従え…」
「いいえ…」
ゆっくりと、カミュは首を振った。
「あなたには、海闘士がいる」
『アクエリアス、まだ神となられて日の浅いジュリアン様を守っては戴けませんか?』
そう、ティティスは言った。
人魚は、海皇がまだ幼い子供であったときから見守って来たと言う。
自分が信じてもいない者の、力になって欲しいなど頼むものがあるだろうか。
神ではない、少年の寂しい心。
少年の心には従ってやれたかも知れない、だが……。
海皇には従えぬ。