雨が降ったら会いましょう。
淡々と、けれどもおどけたように、2人ともが笑いながら交わす会話は和やかで。臨也は最後にこんな風に誰かと話したのがいつだったのか、思い出そうとしてやめた。初めてかもしれない、いや、もうこれが初めてでいいやと思う。そうして、帝人が差し出した携帯がデータ受信の画面を表示していることに、なぜだかとても満たされた気分になるのだった。
登録名はちゃんと甘楽に変えてあるし、抜かりもない。送信して次に受信画面にすると、同じく送信画面に切り替えた帝人のデータが送られてくる。臨也はちょっとだけ迷って、それを新しいフォルダにわけて登録をした。万が一のことを考えて、そのデータから苗字を削り、帝人君、と登録を直す。
新しい友達。
くすぐったい響きだ。
「よろしくね、帝人君」
彼に会う日は、いつも雨だった。
普段、なかなかに殺伐とした世界に身をおいている臨也なので、仕事が忙しいとそちらに夢中になって帝人のことなどすっかり忘れ去ることだってあるのに、どうしてかいつも、雨が降るとあの澄んだ瞳を思い出して、会いたくなる。
最初のうちは、メールで食事に誘い出していた。
ファミレスに寄ったりファーストフードに行ったり、ラーメン屋やチェーンの定食屋や、パスタ屋、焼肉屋、と会うたび場所を変えていろいろと食べたのだが、そのうちに場所を決めるのが面倒になってきて、ついでに奢られるのに良心が痛んだらしい帝人がうちで食べますか?と言い出したのは、8月頃だったか。それ以来、スーパーで適当に買い込んで帝人の家で作ってたベるのが主流になった。
実際、やってみるとこれがとても楽だったのだ。帝人は学生だから、特別な用事がない限り夕方には帰宅するし、チャットという趣味のために帰宅時間がそう遅くなることがない。だから夜に訪ねれば大抵そこにいて、そして一人暮らしの彼は大概、ろくなものを食べてないので、鍋食べようとか、カレー作ろうとか、天丼にしようとか、臨也が材料を持っていって提案すれば大抵乗ってくれた。臨也が自分で作ることもあったし、帝人が作ってくれることもあったけれど、そのへんは何時も大体、その場の雰囲気だ。
そのうち食器がすべて2人分になり、時々メールで買って来るもののリクエストが入るようになり、いつの間にか臨也の分の布団が持ち込まれ、さらにはタンスに臨也の服が置かれるスペースが出来た。
帝人の家はとても狭いので、布団を2組敷くとそれだけでぎゅうぎゅうで余計なスペースが全くなくなるのだが、お互いにそれは全く不満ではなかった。
季節が変わって9月ごろになると、もう事前に行くというメールもしなくなった。雨が降ったら帝人の家に行くのが通常の予定として組み込まれた。ちょっと冷え込んだ夜、珍しく遅くなった帝人をアパートの前で30分ほど待ったことがあったのだが、その次の雨の夜に、はい、と無造作に合鍵を渡されてしまい、それで益々臨也は帝人の家に入り浸るようになっていた。
朝起きて、雨が降っていたら、平日だろうがなんだろうが帝人の家に勝手に入って、ごろごろしていたりする。帰宅する帝人も、そんな臨也に文句を言うこともなく、平然とただいま、と言うので、臨也はただ微笑んでお帰りと返すだけだった。
「なんか家族みたいだね、俺たち」
やっぱり臨也が持ち込んだコーヒーを飲みながら、だらだらと過ごしていたときにふと言ってみたら、帝人は首を小さくかしげて、
「雨の日限定の家族って、ちょっと特殊すぎやしませんか、甘楽さん」
と笑った。否定は、されなかった。それで満足だった。
帝人の側が心地よかった。その目に見詰められるのが好きだった。さわり心地の良い手のひらが好きだった。背中合わせで座ったときの、体温が好きだった。
信じられないくらい穏やかな気持になれる。帝人の部屋は臨也にとって一種の聖域みたいなものだったのかもしれない。だから、だからこそかたくなに、雨の日だけという自分で勝手に決めたルールを、遵守したのだろう。
これが普通になったらだめだ、と臨也は思っていた。帝人が柔らかく笑い、甘楽さん、と優しく呼ぶその声が。当たり前だと思ってしまったら自分はきっと、帝人を手放せなくなってしまうだろうと、わかっていた。
徐々に心に染み付いてはなれなくなってきた劣情を、帝人に知られるわけにはいかない。あの透明な瞳に、臨也の濁流が流れ込むわけにはいかないのだ、その、澄んだ水面のような瞳こそ、臨也がもっとも守りたいものだったから。
だからずっと甘楽と呼んでいてほしい。折原臨也という名前を知らないでいて欲しい。そう思って、思い続けて、季節が巡る。
「甘楽さん、今夜は親子丼にしますよ」
いつも通り、勝手に帝人の布団に転がって本を読んでいた臨也に、帰宅早々帝人は宣言した。
こんな風に宣言するときは、帝人が作ってくれるときなので、臨也はにっこりと顔を綻ばせる。
「いいね、親子丼かあ、食べるの久しぶりだなあ」
「鶏肉が安かったんです。甘楽さんってカツ丼なイメージですよね」
「え?何そのイメージ」
「分かりやすく高級志向っていうか」
金曜日の夜はこの季節にしては冷え込んでいて、臨也もここのところ袖を通していなかった冬ものの長袖を着ている。このアパートの冷暖房は余り効率のよいもではなくて、ハロゲンヒーターはとっくにしまいこまれていたので、服で調節するしかないのだ。
無造作に制服を脱いでいく帝人からなんとなく視線を逸らして、恋する乙女のように赤く染まりそうな頬を、帝人から見えないように手のひらで覆う。まさか雨が降るたびに家に遊びに来るこの大人の男が、高校生男子の自分に欲情を覚えるだなんて想像さえしていないであろう帝人の、白い背中のラインが臨也の目にはとても眩しかった。
安物のフリースを被って、振り返った帝人が、
「明日も降るみたいですよ」
となんでもないことのように言う。何が、なんて問い返しはしない。雨が、に決まっている。
「泊まってっていいよね?」
「ダメって言って素直に帰ったことなんかないくせに」
「だってここ、居心地がいいんだもん」
「甘楽さんって・・・ああもう今更ですよね、まあいいや」
「ちょっと帝人君?今変な人だとか変わり者だとかむしろ変態だとか失礼なこと思ったでしょ?」
「人の心を読まないでください」
やれやれ、仕方がないなあとでも言うように肩をすくめた帝人は、冷蔵庫の中を覗き込んで難しい顔をする。
大方、鶏肉にばかり目がいって、冷蔵庫の中身が何もないのに、必要最低限のものしか買ってこなかったのだろう。
「明日は俺が買い物いってあげるよ」
臨也が言えば、帝人は視線を合わせて無邪気に笑う。
「僕、酢豚が食べたいです」
「ああ、なんかタマネギ入れるだけの簡単中華の素があるよね」
「ああいうの、好きなんですけど、大抵2・3人前だから」
甘楽さんが来るのを待ってました。
続けられた言葉は、春の日差しのように温かく、臨也の心にしみこんでくる。待っていた、と。
来るなといわれたことは山ほどあるが、待っていたと、こんなにも嬉しそうに。
作品名:雨が降ったら会いましょう。 作家名:夏野