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雨が降ったら会いましょう。

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どうぞ、と促すのに、ためらうしぐさを見せるその男を、帝人は少し不思議に思う。どうしたのかと重ねて聞こうとした帝人の言葉を遮るように、急いた言葉が吐き出された。
「ごめんね、帝人君」
「え?」
「ごめん・・・もう、来ない」
うつむいて、震える声でそんなことを言い、臨也は帝人の家の鍵を帝人に向かって突き出す。綺麗に磨かれたそのカギには、渡してずいぶんたつが傷一つなく、この男がどれほどこれを大切にしていたかが目に見えるようだった。
「・・・甘楽さん?」
指先が、震えている。
それでも突き出されたままの鍵を、帝人はためらいがちに受け取った。どういう意味なのか、うまく理解できないまま聞き返す。
「俺は君に、嘘をつき続けることが、辛いんだ」
臨也は顔を上げない。震える声のまま、押し殺したように、そんなことを言う。
「名前とか正体とか、そのほかいろんなことについて。俺は君が大事だから、君と一緒にいることが好きで、君の過ごしている時間がとても楽しいから。だから本当はこのままでいたかったけど」
それがどれほど脆いゆりかごであるか、分からないほど子供ではなくて。
「っだから」
この先の未来、もしもを考えると怖くてたまらなくて、だから。


「さよならを、言いに来たんだよ、帝人君」


崩れるように笑ったその顔に、帝人が目を見開いて唖然とした顔をする。しばらく沈黙が降りて、二度、三度と瞬きをした帝人の表情が、次第に落ち着きを取り戻してまっすぐに臨也をとらえた。
ああ、この、澄んだ水面のような綺麗な瞳が。
何よりも好きだった、と思う。
もう、見ることができなくなるのは悲しいのだけれど。
「・・・甘楽さんとは、もう、会えないということですか?」
静かに確認を問われて、臨也は頷いた。本当は色々考えた。どうすれば近くで、帝人を守って生きていられるかということについて、これ以上ないくらい頭を使って考えた。けれども無理だ、どんな方法を使うにしても、このままの嘘で覆い尽くした関係では、無理なのだ。
この透明な少年にオリハライザヤという濁りを注ぐことはできない、と思う。ほかならぬ自分が一番それを嫌っている。怖い。透明度をなくした彼を見ることが、何より悲しい。
「・・・俺は、帝人君が大事なんだ」
それはいいわけでしかないけれど、まぎれもない本心だった。なんて薄っぺらく、軽薄な真実なのだろう。
大事だからさようならなんて、いまどき映画や小説にだってあふれかえって、滑稽なくらいの王道ストーリーじゃないか。
帝人はしばらくじっと、臨也の瞳を覗き込んだままで何か考え込んでいる様子だった。じっと見つめ合って、ああやっぱり好きだなあと思って、きっと帝人も臨也を・・・いや、甘楽を、好きでいてくれるのだろうと言うことは分かっていた。
臆病なところは似ていたね、と臨也は思う。
寝る前に頭を撫でておやすみ、と告げたとき、頬を染めて嬉しそうに微笑んだ顔。
朝、臨也より早く起きたと思いこんで、愛しげにその寝顔を見つめていた顔。
甘楽さん、と呼ぶ甘い声の、心が暖かくなるような響きも。
本当は気付いていたんだ。それでも自分は折原臨也で、甘楽ではいられないから。
「ねえ、お願いだよ帝人君。俺からは言えないから。君から言ってくれないかな」
「甘楽、さん」
「さよならを。卑怯だって分かってる、帝人君だって言いたくないって知ってる。でも、それでもさ、俺から君にさよならなんて、言おうと思ったら一生を費やしちゃいそうだからさ」
頼むよ、と震える声が言う。本気の声が。
帝人は息を吸い込んで、吐いて、もう一度吸い込んだ。表情がくしゃりと歪んで、泣きだす直前のような顔をする。
そうして、仕方がないなあとでも言うように。
何もかもを許すように。

「・・・さよなら」

帝人が言う。臨也の願いどおりの言葉を。
震える、声で。


「さよならです、甘楽さん」


臨也は帝人に背を向けて、一目散に雨の中を走り去った。久方ぶりの雨は思いのほか強く、傘をさす気もない臨也を容赦なく重い水の檻の中に浸していく。
さよなら、と帝人の声が耳元でこだまして、目から何か熱いものがあふれて止まらない。大事だった、大切だった、誰よりも愛していた。だからさよならなんて、そんなの悲しすぎるけど、こんなに憶病になったのは帝人に会ってからだから。帝人にもらった感情ならば、せめて抱きしめていようと思う。誰もいない民家と民家の間の細い道を走りぬけて、廃ビルの立ち並ぶ一角に手をついた。
容赦なく降り続ける雨に、全身全霊が冷え切っていくのを感じる。
帝人を脅しの種に使った男の組織は、徹底的につぶした。もう残党さえもこちらに手出しはできないはずだ。どうやって帝人のことを知られたのかについては、前回の取引の時に男が臨也の携帯を盗み見たのだと分かった。他に帝人を知る人間はいないと、自信を持って言えるくらいには徹底的に調査したので、大丈夫なはずだ。
大丈夫。
俺の水面は守られた。
自分に言い聞かせるようにそんなことを繰り返して。
分かっていた、わかっていたじゃないかと、何度も何度も自分に問いかけて。
ああ、それでも。
そばに、ずっとそばに。そう願っていたあの幸せな日々は、なんて優しかったのだろう。もう二度とあの空間にはいられないんだと思うと、それだけで何日でも泣ける気がした。甘楽はもういない。帝人の隣は、また誰かが埋めるのだろうか。それを知ったとき自分は、その誰かを怨まずにいられるだろうか。今日のこの決断を後悔せずにはいられるのだろうか。何度も何度も、同じことを自分に問いかけて。でも、それでも。
あいしている。
臨也のすべてをささげて。
少年の透明な空気を、瞳を。


あいして、いるから。


冷たいコンクリートの壁に背中を預けて、そのままずるずると地面に座り込んだ。降り注ぐ雨は強さを増して激しく大地をたたく。
このまま死んでしまいたい、なんて以前の自分からしたら奇跡みたいな戯言をちらりと思う。死ぬのは怖いけど。この先帝人の隣に誰かが立つその日を迎えることのほうが、こわい気がして。
馬鹿だなあ、と臨也は笑う。ひきつった声がのどの奥から漏れた。自分で決めたのに、もう後悔しているなんて、滑稽だろう。膝を抱えて、涙だか雨だか分からない水滴をぬぐってもぬぐっても、一向に流れ落ちる水が途切れることはなかった。
このまま雨になって消えてしまいたい。
濁流にしかなれないけれど。
ぼんやりとしたまましばらく動けなくて、臨也は静かに目を閉じた。もう少し雨の中にいたかった。あの子を思い出すものの中に。
体のすべてが冷たく染まるころ、臨也の耳が足音をひろう。
「・・・?」
ぼんやりと顔を上げれば、傘を差した人影が近づいてくるところだった。その人影は、臨也の目の前で立ち止まってゆっくりとしゃがみこむ。


「ねえ、あなた暇そうな顔してますよね」


いつか自分が言ったのと同じセリフを零した少年の声は、とても震えていた。
驚きに目を見開いた臨也の頬に手を伸ばして、それでも彼は懸命に、何かを言おうとして、口を何度かあけては閉ざし、もう一度開けて。


「・・・臨也、さん」


ついに。