鬼の腕
どこをどうやって帰ってきたのか分からないが、公園のトイレで吐いた事だけは覚えていた。あたりはすっかり暗くなっていて気がつくと家に帰っていたが、お妙はもう店に出勤していった後だった。
良かった、と思う。今の自分は本当にひどい顔をしているだろうと、鏡を見なくても分かった。
(こんな顔をして帰ったら、姉上は仕事を休むだろうな)
今お妙に側にいられる事は拷問に近いと思った。水を浴びるほど飲んで、父親の形見の刀を取り出した。この一ヶ月ほとんどこればかり振っていた。
この重みだけが自分を正気にさせるのだと言い聞かせながら。
一ヶ月の成果はその腕に現れていた。引き締まり動かすたびに盛り上がる筋肉は、その使い道を主人から聞かされぬまま鍛えられていく。びゅっと刀が空を切る音を、新八は一振りごとに飲み込んでいった。
(吸うがいいさ。こいつが吸いたいと欲するのなら、僕はいくらでも吸わせよう)
誰でも、喉が渇くのはつらいだろう、と昼間の自分を思い出して自嘲気味に笑ってみた。
銀さんは
銀さんはどんな気持ちで刀を振るのか
どんな気持ちでその刃を突き立てるのか
天人だけじゃない
人も斬っただろう
どんな気分なんだろう
僕は
もう人を斬る事は無いだろう
もうそんな機会は無いはずだ
でも
一振りごとに考えを切り捨てろ
雑念は邪魔だ
そして危険だ
「新八〜」
銀時の声が新八の後ろから聞こえた。聞き慣れたはずの声だったが、もう何年も聞いていないような感覚におちいる。
「何してるのかと思えば。ずいぶん熱心だねえ」
「銀さん。どうしたんですか?」
「お前の姉さんからよ、お前を頼むって言われてさ」
お妙の心配性は今に始まった事ではない。それが煩わしいと思う事もある。
今がそれだ。
「飯食え。作ってやっから」
「神楽ちゃんは?」
「留守番だ」
手に持った袋からネギが飛び出し、白菜がスーパーの袋越しに薄く見える。鍋だろう。
「鍋なら神楽ちゃんも連れてくれば良かったのに」
刀を鞘に納め、手ぬぐいで汗を拭った。震える手を銀時には悟られたくなかったから、背を向けた。
「ああ、でもよぉ、何だかおめーには会いたくねえらしい」
「怒ってるの?」
今日の態度は人を怒らせるには十分だったかもしれない。心配をかけてそのうえ逃げてきたのだからと新八は自分を恥じた。
「いんや、怖えーんだってよ」
「神楽ちゃんらしくないね」
自分の口からこんな言葉がどうして出てきたか新八には分からなかった。なぜこんなに冷静なのか。真選組の二人とのやり取りから新八は自分が変わったような気がする。
(斬りたい)
欲求は強くなってきたが、相手があの二人では到底無理だ。それが今の衝動を抑える要因だとしたら情けない。
彼奴らを斬れるほど強くなればいい
それには腕が必要だ
人斬りの
手にした刀がそう語ったように思えた。
不意に銀時が新八の横顔に手を当てる。銀時の手に伝わる冷たいほほの感触は、刀を振っていた時間の長さを想像させる。
「新八、夜は考え事すんな。囚われるぞ」
銀時は新八の腕をつかんで家へと強引に引っ張り入れた。
「特に刀と話すのはやめとくこった。やつらは夜になると本性を現す」
食事時は新八や神楽が一方的に話す事の方が多いから、新八が黙っている食卓は静かだった。鍋のクツクツという音と、ガスコンロのシューッという音だけが響いているだけだ。新八は規則的にはしを動かす。たぶんまた後ですべて戻すだろう、と思った。
「ごちそうさま」
「デザートもあるぜ。杏仁豆腐」
銀時がよいっしょっと言って席を立ち、台所から冷えた杏仁豆腐とスプーンを持ってきた。
「珍しいですね。クリームとかあんこが無いですよ」
「たまにはな。なんか体に優しそうだし」
不意に新八のお腹の辺りが暖かくなった。
(そうだ、この人はこういう人だ)
「ありがとうございます」
「俺が食べたかったんだよ」
新八はパックのふたを外し白くて柔らかい物にスプーンをたてた。口に運ぶと舌にひんやりとして柔らかい感触が伝わる。
「甘い」
新八がうめいた。ここ一ヶ月何を食べても味は分からなかったが、この白い物は新八の舌に味覚を蘇らせた。
「甘いです、銀さん」
言葉が嗚咽に変わった。
この一ヶ月押さえていた物がどっと出てきたような気がした。
あの腹に沈んでいった黒い物も口から出てきそうだった。
「あんまり甘くねえよ。クリームかかってねえし」
とぼけた調子で銀時がつぶやく。
その日新八は久しぶりにぐっすり眠った。
あの夢はみない。