はるかに長い、坂の向こうに
脱衣所の扉の傍に座り込んでいたアルフォンスは、小さく響いたかちゃりという音に顔を上げた。
「───落ち着いた?」
タオルを被って出てきたエドワードの長い髪からは、まだ時折ぽたりと雫が落ちている。
「ダメじゃない姉さん、ちゃんと髪拭かないと」
彼女の前に立ち、被ったタオルで髪の雫を拭ってやる。
うつむいたままのエドワードは何も言わない。
ひとしきりぱさぱさと髪を拭いて、水を吸いきったタオルを脱衣かごに投げ込む。
「ドライヤーかける?夏場だし、このままでも風邪は引かないだろうけど」
「───アル」
手櫛で髪を整えるアルフォンスに、エドワードが漸く口を開く。
「なに?」
「今から、オマエの部屋。…行っても、いいか?」
「…え?」
アルフォンスの手が思わず止まる。
「アルの部屋で、寝ても良いか?」
「……そりゃ、構わないけど…」
とまどうような声音が、俯いたままのエドワードの頭に降ってくる。
「じゃあ姉さんのベッド、ボクが借りていい?いくらなんでも、床で寝るのは背中が痛いし」
「違う。…オマエも、一緒にだ」
「───姉さん…」
ややあって、ふう、とため息がひとつ。
「ボクに荒行でもさせたいの?寝る前に、ボクが何て言ったか忘れた?」
また髪を梳きながら、まったくもう、とでも言いたげな声が落ちてくる。
「こうしてただ触れてるだけでも、ボクは姉さんにドキドキしちゃうんだよ。そのボクと一緒に寝たいって、どういうことか解ってる?」
ぴく、と肩を震わせるエドワードに、呆れたようなため息がもうひとつ。
「他の人に同じ事言ったら、確実に誤解されるよ。そんなの困るでしょ」
「困る、けど」
「じゃあ、一緒に寝たいなんて、簡単に言わないの。ボクにだって、理性の限界ってものがあるんだから」
「…我慢、しなくていい」
ぽつりと零された呟きに、再びアルフォンスが手を止める。
「オマエが、その…抱きたいって言うんだったら。そうしてくれれば、良い」
「…投げやりな風にも取れるけど、それ」
「違う」
ふる、と小さく首を横に振って。
誘い文句なんて、知らないから。
「…さっきからずっと、考えてた」
「…何を?」
「オマエがくれる、気持ちに。オレが返せるものはなんだろう、って。…だって、ただ好きでいるだけじゃ、全然足りないんだ」
どんな顔して話せば良いかも、解らなくて。
「何回好きだって言っても、オマエがくれる気持ちにはきっと、到底追いつかねぇ。だけどオレ、ちゃんとオマエの気持ちに、同じだけ応えたいんだ」
ずっと俯いたままで、エドワードは上手くまとまらない言葉を紡いでいく。
「それで、オレがオマエにあげられるもの、探したら……」
感情は全て、アルフォンスに差し出してしまっている。
それでももっと他に、残せる物をあげたかった───自分がどれだけこの人を好きなのか、その証を。
「…残ってたのは、オレの体だった」
あの時アルフォンスが守ってくれた、エドワードの体。
現実と夢、両方での暴力に屈しそうになりながら、それでも汚されることのなかった、まだ誰も知らない彼女の肌。
「だから、アルが欲しいって言ってくれるなら。…オマエに、オレの”最初”をあげたい」
心臓がことことと早鐘を打ち、顔が熱くなっていくのが解る。
「オマエのものにしてくれよ、アルフォンス」
「───姉さん」
さら、とアルフォンスの手が、エドワードの髪を梳く。
「顔を上げて。ボクを見て」
頬に手が添えられて、エドワードはゆるゆると顔を上げる。
そこにあったのは、アルフォンスの微笑。
「…ありがとう、姉さん。すごく嬉しい」
顔を寄せられて目を閉じると、軽く重ねられる唇。
「───ボクのものに、なってください」
囁かれた小さな声に。
はい、と彼女は応えた。
作品名:はるかに長い、坂の向こうに 作家名:新澤やひろ