はるかに長い、坂の向こうに
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「───はい、校庭に放置してきたので、連絡して引き取って貰ってください」
校門を出る途中で、アルフォンスはズボンのポケットから携帯を取り出し、どこかへ電話を掛けはじめた。
「…ああ、ケガさせちゃったから、逃げることはないと思いますけど。…ボクだって刺されそうになったんですから、正当防衛ですよ。……じゃあ、お願いしますね」
ピッと通話を切ると、エドワードが小さな声で尋ねる。
「…どこに、かけたんだ?」
「学校。マスタング先生に、警察に通報して貰うように頼んだんだ」
「そ、っか」
自分の胸元に手を当て、ほっと息を吐く。
そこでエドワードはふと、自分の着ているシャツのボタンが無くなっていることを思い出し、慌てて前をかき合わせた。
「───ごめん、気づくのが遅くて」
中には茶色のキャミソールも着ていたが、あんな目にあった直後に胸元を開けたままで居るのは不安だろう。
アルフォンスは自分の開襟シャツを脱いで、ふわりとエドワードの肩に掛けた。
「サイズが合わないけど、何もないよりはましだと思うから。帰るまでそれで我慢してて」
「…ちびで悪かったな」
「誰もそんなこと言ってないでしょう?…ほら、袖に腕通して」
むすりとしたままでもおとなしく袖を通したシャツを、苦笑いしながらアルフォンスは一番上の襟元にあるボタンまで一つずつ留めてやる。
しかしアルフォンスの肩よりも低い身長しかないエドワードには、ずいぶんと大きすぎるようで。
半袖の筈の袖が七分袖になって、膝丈のデニムスカートもシャツの裾でほとんど隠れてしまった。
「───だぶだぶ。腹立つ。…なんでこんなにでかいんだよ」
「これでもまだまだ成長期ですから。───さ、帰ろ?」
開襟シャツの中に着ていた紺色のシャツ一枚で、アルフォンスは手をさしのべる。
「…おう」
ぶすくれた顔で弟の手を握り、エドワードはすたすたと歩き始めた。
家まで15分ほどの距離を、並んで歩いて帰る。
サンダルを履いたエドワードの素足は、肌質の所為か陸上をしていてもあまり日に焼けていない。
そのほっそりした脚の膝に滲む、赤い血。
意地を張るようにいつもの歩調で歩いているが、本当は痛むに違いない。
傷跡が残らなければいいけど、とアルフォンスは一人考える。
けれど状況が状況なだけに声を掛けることも出来ず、お互い無言のまま家の鍵を開けた。
「───傷口洗って…ついでにシャワーも浴びておいでよ。その間に、母さんに連絡しておくから」
「…いいよ。せっかく旅行してるんだし」
「じゃあ、ウィンリィに電話するよ。今日は泊まって貰うようにお願いしよう?」
幼なじみで同じ女の子である彼女が居てくれた方が、エドワードも心強いだろう。
「……けど、あいつにだって予定があるだろうし…面倒かけるわけには」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!?」
思わず声を荒げてしまったアルフォンスに驚いて、エドワードは黄金色の瞳を大きく見開いて肩を震わせる。
「ご、ごめ……っ」
「…ごめん、こっちこそ。言い方がきつかった」
またぼろぼろと涙をこぼし始めたエドワードに、アルフォンスは自分の行動を恥じた。
「とにかく、まずはお風呂に入っておいで。あとのことは、それから考えよう」
脱衣所で服を脱いで髪を解くと、ぱらぱらと小さな音がした。
のしかかられて抵抗したときに、砂が髪の中に入ってしまっていたらしい。
ぞくりと震えが走ったが、エドワードは気づかない振りをして浴室に入った。
コックをひねり、温かな湯を出す。
ざあざあと降ってくる湯の雨の中、エドワードはぼんやりと立っていた。
すりむいた膝の傷が湯に滲みて痛いだろうと思ったのに、髪を洗っても体を洗ってもその場所は痛みを感じない。
なんだか、感覚が麻痺しているようだ。
泡を洗い流していく温かなその流れは、逆に自分の体を押さえつけ這い回った男達の手の感触を思い出させた。
(───あいつら…オレのこと、狙ってたのかな)
何処で調べたのか名前も顔も知っていたし、相手の片方は『思っていたとおりだ』とさえ言っていた。
あの様子だと、襲う候補を何人かピックアップしていたのかもしれない。
無論エドワードが問題集を取りに行ったのはたまたまだったので、学校へ向かう途中の彼女を偶然見かけた男達が、チャンスとばかりにあとを尾行てきたのだろう。
エドワードは、あの長い坂を半分以上下っていたのに、逃げるために迷わず坂を上ることを選んだ。
坂を下りきれば、まだ人でにぎわっている商店街へたどり着けたのに。
追いつめられたエドワードは、アルフォンスの残っていた学校へ逃げた。
これが体力の少ない、普通の女の子なら。
きっと坂を上りきるまでに力尽きて男達に追いつかれ、高校へたどり着くまでに彼らの手に落ちていた。
泣き叫んで必死に抵抗する体を、笑いながら押さえつけ乱暴していたのだろう。
けれど男達にはいくつかの誤算があった。
まずはエドワードが坂を上りきり、学校まで戻ったこと。
それから、予想以上に抵抗したこと。
そして、学校にアルフォンスが残っており、半端じゃなく強かったこと。
───もし、坂の途中で男達に追いつかれてしまっていたら。
───もし、抵抗できるほどの力が残っていなかったら。
───もし、学校にアルフォンスが残っていなかったら。
「───っ!」
エドワードの全身が、がたがたと震え始める。
立っていることすら出来なくなり、湯の雨の中で膝をついた。
「あ…ぁ……っ」
いくら未遂であったとはいえ。
両腕で体を抱きしめ、ぎゅっと力を込めても、震えが収まらない。
いくら同じ屋根の下に、アルフォンスがいてくれるとはいえ。
今のこの空間に、エドワードはたった一人で。
あの、長い坂の向こうへたどり着こうとしていた時の、言いようのない恐怖感がよみがえる。
「…いやあああっ!」
作品名:はるかに長い、坂の向こうに 作家名:新澤やひろ