はるかに長い、坂の向こうに
服を着たら消毒してくれ、と言われて、制服から着替えたアルフォンスはリビングで救急箱を広げた。
テーブルの上に脱脂綿や消毒液、それに絆創膏…と並べていくと、ぱたぱたと階段を下りてくる軽い足音が聞こえた。
「───お待たせ」
「じゃあそこに座って……って、なんで姉さん、まだボクのシャツ着てるの?」
リビングに姿を現したエドワードは、普段から寝間着代わりに使っている黒のハーフパンツと、なぜかアルフォンスのシャツといういでたち。
「や、それが何か着心地良くってさ」
「ただの制服なのに…」
「いーじゃんか!ほら、消毒頼むって」
ぽすんとアルフォンスの隣に腰を下ろし、ほい、と右足を差し出す。
「…はいはい」
まあ明日と明後日は学校もないのだから、月曜に間に合うように洗濯できればそれで良いのだが。
消毒した傷の上にぺたりと絆創膏を貼り、いつもの調子に戻ったエドワードと夕食を摂って。
アルフォンスがシャワーを浴びてリビングに戻ってくると、エドワードがソファの上で眠っていた。
「…姉さん?」
わしゃわしゃとタオルで髪を拭きながらエドワードを呼ぶが、返事はない。
「寝るなら、部屋に帰って寝ればいいのに……おーい姉さん、寝るなら部屋に行こうよ」
呼びかけながら肩を揺するが、起きる様子がない。
時計はまださほど遅い時刻を指してはいなかったが、今日はさすがに精神的にも疲れてしまったのだろう。
「しょうがないなぁ」
夏場なのだし、このままここで眠っていても、時期的には問題ないのだけど。
膝を抱えるように丸くなって眠るエドワードの膝裏に手を差し入れると、んん、と小さく身じろいで目を開けた。
「…ある……?」
「起きた?眠るならちゃんと、部屋に戻ってからにしなよ」
「…あったかい…」
「そりゃ風呂上がりだもん、ボクは暑いくらいだよ」
ほにゃりと笑う姉に、アルフォンスはタオルを頭に被ったまま返す。
「このまま寝るんでしょ?部屋まで連れて行ってあげるから」
抱き上げると、その体が驚くほど軽いことに気づく。
ずっと小さな頃は身長も体格も殆ど変わらなかったのに、どうしてこんなに差が出てしまったんだろう。
「───ちょっ…アル?」
そう思うと急に切なくなって、アルフォンスは腕の中のエドワードをきつく抱きしめた。
「どした……?」
呼びかけに応えず、甘い香りのするエドワードの髪に鼻先を埋める。
こんなに小さくて、細くて、柔らかな体を。
「どうして、傷つけたいなんて考えるんだろうね」
小さな声が意図するものが解ったのか、エドワードがびくんと体を震わせる。
「…それは、オマエの方が解るんじゃねぇのか?」
「解んないよ。こんなに大事で、大好きで仕方がないのに」
どさりとソファに腰を下ろして、アルフォンスは姉の体を抱え直した。
「───じゃあ…オマエは。あんなふうに、したくないのか?」
「あんなふうにって?」
「その…オレのこと押し倒して、服脱がせて……」
言いながら自分がとんでもないことを言っていることに気づいたのか、掠れて小さくなっていく語尾に比例してエドワードの顔が真っ赤に染まっていく。
恥ずかしさに視線を合わせていられなくなり、アルフォンスの肩口にぽすんと顔を埋めてしまう。
「…そりゃあ、したくないって言ったら嘘になるよ。ボクだって聖人君子じゃないんだ」
「…っ」
赤く染まった耳朶を弟の指になぞられ、エドワードは首をすくめた。
なぞる指が微かに震えているように感じるのは気のせいだろうか。
「ア、アル……っ」
「こうやって、好きな人にはいつまでも触っていたいし、抱きたいなぁって思うよ。…だけど、姉さんの気持ちを置いてけぼりにするのはイヤだ」
「オレの、気持ち…?」
「例えばこの場で、先走って姉さんの体を抱いたって、今の姉さんにはきっと苦痛しか残らない。それじゃ何の意味もないんだ」
エドワードの耳にかかる髪を、さらりとかき上げて。
「ボクだけが気持ちよくなるんじゃなくて、姉さんだって気持ちよくなきゃ。セックスってそういうものでしょ?」
だから、いつまでだって待つよ。
問いかけと言うよりは独りごとに近い物言いで、アルフォンスは続ける。
「それに…あんなことがあった直後に、抱きたいなんて言えないよ。今だって、ボクの手も怯えて跳ね除けられるんじゃないかって、びくびくしてる」
骨張った大きな手が、かすかに震えながらゆっくりエドワードの頭を撫でる。
確かにそれは、数時間前エドワードに乱暴しようとした者と同じ「男」のもの。
押さえつけて肌を暴き、力ずくで体の奥へ侵入しようとした者と、同じ性を持つもの。
だけど、今触れているのは、そうであってもどこかが少しずつ違う。
「……そんなこと、しねぇよ」
もぞりと身じろいで顔を上げ、エドワードはアルフォンスを見上げる。
「だってこれはアル、オマエの手だ。どうして怯える必要があるんだ?」
頭を撫でていた弟の手を取り上げ、エドワードは子供が親の手を眺めるように両手で包んだ。
彼女のものよりも関節一つ分近く長いアルフォンスの指を、自分のそれと絡める。
「だけどボクは”男”なんだ。姉さんを傷つけようとした、あいつらと同じ」
「オマエはあいつらじゃない。だから、怯えたりしない」
「姉さん…」
「───だって…オマエの手は、こんなにも優しい」
アルフォンスの指先に、とん、と唇を押しつける。
「……っ」
一瞬、アルフォンスの顔が泣きそうにゆがむ。
こみあげてくるのは、どうしようもないほどのいとおしさ。
「───姉さん」
絡められたエドワードの指に、自分の唇をそっと押し当てて。
「あなたが好きだよ。大好き」
掠れた声で、ささやいた。
作品名:はるかに長い、坂の向こうに 作家名:新澤やひろ