灰とバロック
マクマランは昨日今日大きくなった家ではない。そうであれば、息子がイシュヴァールへ行くことは考えられなかった。
ロイの考えを読んだのか、老人がにやりと笑う。
「わしには子供はおらんかった。長いこと。だが、最近色々考えてな、養子をもらったんだよ」
「…なるほど?その養子とやらが、イシュヴァールで私の戦友だったというのかな?」
「そういうことだ」
「だが、それにしても、そんな致命傷なんて負った覚えはないな。そんなことがあったら死んでいるに決まっているだろう」
鼻で笑って反論するロイに、老人はくつくつと喉奥を鳴らした。
「…そもそも、わしはあんたと会った事があるんだよ。大佐」
「…なに?」
「あれは今から四十年も前の話だ。あんたは、そう、あの頃は医者の助手をしていたな。薬屋だった」
「…他人の空似では?四十年前なんて、生まれていないぞ」
老人は黙って胸元から写真を取り出した。今でさえ写真はそんなに安い、普及した技術ではないから、珍しいものになるだろう。
そこには今の面影が少しある小柄な男、これはマクマラン老人だろうが、とにかくその男と、他に女が一人、男が二人写っていた。男の片方は老人、片方はまだ若く、青年といった風情である。黒い髪に黒い瞳をした、目元の涼やかな印象の青年は、確かにロイに似ていた。本人だといわれても納得してしまうくらいに。
マクマラン以外は皆白衣を着ており、医者なのかもしれなかった。
「小さな病院だったな。覚えてはおらんかね」
「…何のことやら」
「私はその頃検査器具を卸していた。大佐。あんたはあの時、そう、…なんと名乗っていたかな…、ファーストネームは確かそのまま、同じだったと記憶しているが…」
これでどうだ、とばかり老人が笑う。しかしロイは、欠片も表情を変えることなく首を傾げた。
「さて。ご老人の言っていることは皆目見当がつかないな。失礼だが…精神科医の診断を受けることをお勧めする」
まるで揺らぐことのない態度に、老人は暫し沈黙した後、不愉快そうに顔をしかめて立ち上がり、背中を向けた。
「大佐。不老不死は人間の夢だ」
ロイは何も言わず、老人を見送った。
「…面会は終わりかな?」
そして十分に時間が経ったところで、自分の背後に立っていた官吏に声をかけたのである。
ウィルフレッド・マクマラン・ジュニアと呼ばれる男は、義理の父に言われた通りに少年をセントラルに連れてきたことを、どこかで後悔し始めていた。マスタング大佐に昔助けられたことは本当だが、彼がエドワードを褒めていたなどと、直接本人から聞いたことはない。それだけの面識はそもそもないのだ。
だが、行く当てもなかった自分を拾ってくれた義父には感謝しているし、その期待を裏切るのは恐ろしいことだった。
しかし、それでも、と男は少年をこそりと見やった。
深夜を挟んでの長距離移動にも、疲労したところはない。見た目だけなら幼い少年にしか見えないのに、その金色の目の奥にはとても男などでは足元に及ばないと思わせるような理知の光がある。
国家錬金術師がいかに図抜けた存在であるかは知っているつもりだ。あれはほとんど、化け物というべき域に達した高みの存在だろう。そんな資格をわずか十二歳で獲得したというのは、既にして伝説のような重みを持って広く知られていた。その生きた奇跡が、今男の目の前で静かに思念に浸っている。
「…もうすぐセントラルにつく」
声をかければ、少年がぱちりと瞬きしてからこちらを振り仰いだ。
その瞬間に、不思議と心が決まっていた。どうするべきか、ということが、彼の中で明確に形になったのはその時だった。
「――マスタング大佐は政治犯収容所に拘置されている」
言いながら彼は、音を立てずに手帳を開き、さらさらと書き付けてエドワードに示した。
「…?」
男がまず示したのは、会話を続けて、手帳のことには触れるな、というものだった。その、明らかに第三者の耳目を警戒する様子にエドワードは眉をひそめたが、とりあえずは黙って頷いた。
「セントラルに到着したら、まずは面会の手続きをしよう」
――セントラルについたら、義父が君を待っている。だが捕まってはいけない
男の目を覗き込んで、エドワードはとりあえず頷いた。男もまたそれを見て頷く。
「だが、長距離の移動だ。まずは休憩を取らなくてはいけないかな」
――大佐は謀略にかかかったのだ
「…! …そう、かな?オレくさい?」
しばらく風呂入ってないもんなあ、と笑いながら、エドワードの目は笑っていなかった。当たり前だ。
「そんなことはないがね」
――大佐には秘密がある。もしかしたら君も知らないかもしれない重大な秘密だ
「…?」
――秘密を解く鍵は始原の灰にある。始原の灰は、マクマラン本邸の、マクマランシニアの寝室の金庫に隠されている
「…!」
「朝食も食べたほうがいいだろう?セントラルステーションホテルに寄っていこうか。駅の目の前だ」
「げ、あの高いホテル?」
――大佐を助けられるのは君だけだと思う。どうか、義父から逃げて、大佐を助けてほしい
エドワードはじっと男を見つめた後、こくりと頷いた。
昨日初めて会ってからこちら、今の彼が一番信じられる顔をしていたからだ。
「そうかもしれないが、近いじゃないか」
口先では軽い会話を続けながらも、二人の面持ちは実に真剣なものだった。誰一人、それをのぞくものはいなかったが。
セントラルステーションについたのは、朝の八時だった。タラップを降りると、確かにそこに、迎えに来た男とエドワードを待ち構えるようにある一団がいた。あれか、と少年が男の腕をかすかにたたいた。男は、それに対して小さく頷く。
それで合図は終了だった。一緒に歩いてくると見せかけて、一瞬のうちに、エドワードはくるりと回転して雑踏の中に駆け出してしまったのだ。驚いたのは彼を待っていた老人及びその部下達である。特に部下達は慌ててエドワードを追ったのだが、すばしっこいエドワードを捕まえることなど到底出来るわけもなく、少年の姿は朝の駅に忽然と消えてしまったのだった。
出勤途中だったヒューズは、常に左折するポイントで、誰かが物陰からこちらをうかがっているのに気づいた。気づいてしまえば後は警戒するのみである。慎重にうかがって、誰だ、そうダガーを突きつけようとした時、それがそんな脅しの必要のない相手だったということを知った。
「…何やってんだ?おまえさん」
物陰に隠れていたのは、豆、もといエドワードだった。
気づくのが遅れたのは、トレードマークともいうべきあの赤いコートを着ていなかったせいもある。
物陰から出てきたエドワードは、見慣れない青いコートを着て、慎重にあたりをうかがいながらヒューズの前に出てきた。
「――中佐。ちょっと相談がある」
エドワードの台詞は単刀直入だった。だが、それだけにヒューズに緊張感を与えることに成功した。
「おうよ。了解だ」
とりあえずついてこい、と彼はエドワードを促し歩き始めた。今のところつけられている気配はないが、油断は禁物である。