灰とバロック
小さく呟いたエドワードの胸に何かが引っかかる。だがその何かは形を結ぶことなく流れていった。
「…あいつは何食わぬ顔して帰ってきたよ、キャンプに。次の朝、ほんとに何もなかったみたいに。…致命傷を負ってたはずなのにな」
「………」
「帰ってきてみて、あらためて思ったんだ。ありゃあおかしかったって」
「…それは、…」
「思えば俺はあいつのことをなんも知らねえと思った。士官学校でダチんなって、それからつるんでるけどな。知らねえんだ、なんにも」
エドワードは口を開いて、…結局何も言わずに口をまた閉ざした。ヒューズが知らなかったら、エドワードなどもっと知らないだろう。あの男のことを。
少年の脳裏に蘇るのは、彼が知る限りの「ロイ・マスタング」の数々の所作だ。気に食わないところはあるが、けして嫌いではない。それに何より、今のエドワードがあるのは彼がいたおかげなのだから。
鋼の、そう呼んで面白そうに目を細める顔はわりと好きだった。
「…それで調べた。…あいつには、過去が何もなかった」
「過去?」
「どこで生まれたとか、どこで育ったとか、そういうことだな。誰の子供で、とかな。…そういうもんが、きれいさっぱりなかったんだよ」
「…でも、そんなこと…」
「普通はありえない。軍人になるのには、それなりに身元が大事だからな。…いくらあいつが、図抜けた錬金術師だったとしてもだ」
そんな特例は考えられない、とヒューズは目を眇めた。
だが実際にそれはそのままにされている。だとしたらその裏にあるのは何か? …ヒューズの目はそう言っていた。
「…それ、大佐には?」
ヒューズは肩をすくめて首を振った。
「聞けるわけねえだろ?第一、なんて聞くんだ」
「…まあ、そうだけど。…じゃあさ、中佐。中佐はそれ、変だって思って…大佐と縁切ろうとかは思わなかったわけ?」
尋ねればヒューズが不思議そうな顔をして振り向いた。
「なんでだ?」
「なんでって、だって。得体がしれないんだろ?」
ああ、そんなこと、ヒューズが軽く頷いて流した。それから、少年のような顔で笑う。
「隠し事があるんだったらよ、なんだ水くせぇ、とは思うけどな。縁切るのどうのってのは思わないな」
だってそうだろ、と彼は目を細め笑った。人好きのする、懐の広さがにじみ出た顔だ。
「俺はあいつが嫌いじゃねえ。ダチだと思ってんだ。…思ってるから、いきなりいなくなられたら嫌だなって思うんだよ」
「…いなくなる?」
「あいつは年をとらねえ。今は未だ童顔で通してるけどな、限度があるだろ? その『限度』がきたらどうなんのかなって、あいつはよ、なんも言わずにどっかいっちまうんじゃねえかなって」
ヒューズの台詞に、エドワードは眉根を寄せるしか出来ない。
荒唐無稽に過ぎる話だ。普段自分が探しているものも棚に上げて思う。だが反面、しかし、とも思う。賢者の石にまつわる伝説にもやはり不老不死を謳ったものが多いので。
とはいえそれにしても、にわかに信じられるような話ではなかったが。
「――しかし、マクマラン、か」
ヒューズの声の調子が変わった。エドワードの困惑を読んだのだろう。そういうところは、やはり彼は大人だった。当たり前なのかもしれないが、そうやって当たり前の大人であることはなかなか大変だとエドワードは知っている。伊達にあちこち歩いているわけでもないのだ。
「じいさん、何を狙ってんだか…」
「さあな。…そうだ、中佐。…死んだ奴って、一体どんな風に死んでたんだ?」
エドワードもまた気になっていたことを聞くべく話題を変える。そこで、ヒューズは瞬きした後苦笑する。
「…子供を巻き込むのは主義じゃなかったんだがなぁ。ああ、やだやだ」
「オレは子供でいるのはとっくにやめたんだ。良心の呵責なんてらしくないぜ? 軍人さん」
不敵に笑ったエドワードに、ヒューズはただ苦笑する。どの道背に腹は変えられない。ロイを助けるためなら、主義には少しだけ目を瞑ってもらうしかなかった。
「――真珠みたいになって死んでた」
「…真珠?」
「そう。…置物みたいだったな、剥製とか蝋人形とかみたいな。…でも、それは人間だったんだ」
エドワードは顔をしかめた。なんだろうか、それは。
「普通の人間にゃ荷が重い、ってわけでよ、錬金術師に目がつけられた」
「…錬金術師にだって荷が重いよ」
馬鹿じゃないのか、とでも言いたそうに溜息をついたエドワードにはおよそ陰というものがなくて、ヒューズは小気味よいような気持ちを覚える。錬金術は魔法じゃない、と笑ったあの男を思い出す。
何でもかなう万能の魔法なんて存在しない。たとえどんなに不思議でも、何かのからくりはあるはずだ。
見た目は正反対の二人の錬金術師の根底には、はからずも同じ信念があるようで、ヒューズは肩の力を抜いた。
「でも、そんな面倒な殺し方なんでしたんだろ」
「…」
エドワードの端的すぎる疑問に、ヒューズは一瞬徒惑った。この、外見ばかりは幼げな少年の頭脳がそれはもう大人顔負けのものであることは知っているつもりだが、それでもあまりにも淡々と述べられたもので、ちょっとだけ衝撃を受けてしまったのである。
「霍乱させるだけならそこまでやる必要はない。なんか意味があるのか、それとも何かの偶然が重なったのか…」
「偶然て、おまえ、どんな偶然だよ」
「知るかよ。動機の可能性の話だよ。怨恨だったらもっとあっさりやるだろ。そういうこと」
「…まあ、そうだろうけどよ」
「ってことは、何かあるか、もしくは何もないか、じゃねえの」
ヒューズは瞬きする。何か意味があるか、というのは理解できるのだ。だが「何もないか」というのは、すぐには理解できなかった。すると男の困惑を読み取ったのだろう、エドワードが興味のなさそうな様子で補足する。
「だから、偶然。狙ったのは別の事だったのに、それがいくつか重なってありえない状況が発生した、って意味。もうどっちかしかねえんだと思うんだよな…」
「はあ…」
腕組みするエドワードに、ヒューズは意味のない相槌を打つしか出来ない。話の内容が若干高度なものになっていたのもあるし、エドワードの思考に速度についていけない部分があったのもある。
「でもそいつが死んだのは、…始原の灰を持っていたから?か?とにかく大佐はそれで疑われてるんだよな…」
エドワードは呟いているのか聞かせているのか曖昧な調子でひとつひとつ数え上げていく。ヒューズは息を潜めてその様を見守っていた。
単純に少年の思考を邪魔するのが憚られた、それが主な理由だが、それがすべてでもなかった。
不覚にも、ヒューズは見惚れていたのだ。金色の目を伏せて物思いにふける顔、その顔は近寄りがたいだけの何かに満ちていて、声をかける気になどならなかった。同じ人間とさえ思えなかったのだ。
ヒューズは、エドワードがゆっくりと顔を上げるのを黙って見ていた。
「大佐がそれを探してたって話はどっから出た?」
「聞き込みでな。宝石商連中の中で」
「裏は? まあ、取れてないわけないだろけどさ」
ヒューズは子供っぽく唇を歪めた。
「マクマランが噛んでねえか、って話だな」