灰とバロック
荒々しくずかずかと入り込んでいけば、誰もが目を丸くしたが、誰一人としてエドワードを止めようとはしなかった。多分危機感が働いたのだろう。それはとても大事なことだ。生きていく上で。
「ヒューズ中佐は!」
だがそそくさと逃げた人々の中、逃げ遅れた人間もいた。不幸といえばそうだが、まあ、触らぬ神に祟りなしともいう。極力刺激せぬよう、捕まった人間は答えた。恐らく会議室です、と。第三会議室、階段を上ってすぐ右手の部屋のはずです、と。
その簡潔な答えに、暴れる神はにやと笑い、ありがとよ、と答えた。それは凶暴で凶悪だったけれども、同時にひどく目を引く鮮やかな笑みで、言ってしまえば美しくさえあった。だから、捕まった人間は思った。不幸でなく、幸運だった、と。
思われた凶暴な侵入者には、そんなことまるで与り知らぬことではあったが。
階段を上り、エドワードはノックなど勿論せず、「開けるぞ中佐!」と言いながらドアを蹴破った。ドアは、あわれ蝶番まで失ってきいきいと悲鳴を上げた。…一瞬の器物損壊劇に、室内にいた人物も目を丸くした。
「…どうしたってんだよ、エド」
山のように資料を積み上げ広げたヒューズが問う後ろでは、彼の部下なのだろうが、数人が固まっていた。恐ろしかったのだろう。無理もない話だ。
「逃げた!あの無能!」
「…は?!」
「ちくしょうあいつ許せねえ!中佐オレの服出せ!あいつぶん殴らねえと気がすまない!」
「ちょ…、落ち着けよエド、説明してくれ、逃げたってなんだ?!」
部下に指示して少年の着替えた服を持ってこさせながら、ヒューズは腰を浮かせて食って掛かる。だがエドワードも怒り心頭なので、回答は喧嘩腰になる。
「だからあの無能がなんかグダグダいって、さよならだとかいって!どっかいっちまったんだよムカつく!なに勝手言ってんだあいつ!」
「…エド、エード、なんでおまえがそんな怒ってんだ…」
俺も怒りてえけどなんか気が抜けるわ、そんな風にいって、ヒューズはエドワードの頭をがっしと捕まえ、そのままぐしゃぐしゃとかき回し始めた。やめろ、と暴れたエドワードも、それで多少毒気が抜けたのか、不意に拗ねた子供のような顔になって、動きを止める。
「…あいつ、…オレだって、大佐のこと嫌いじゃなかったのに」
「…?」
「中佐だって、中尉だって、皆、…オレだって、心配してたのに。…そんなの全部いらねえみたいに、…くそ、馬鹿にしやがって!」
唇をきゅっと噛み締めた少年の顔を、ヒューズが困ったように、けれどどこか嬉しそうに見つめて、おもむろにその頭を抱き寄せる。
「よーし。エド。ぶん殴ってきてくれるか、俺の分も」
「…中佐?」
見上げてくる瞳に、息子もいいなあ、なんて思いつつヒューズは目を細める。
「責任は俺が取る。マクマランの本邸に殴りこんで、始原の灰見つけて来い」
「え?」
「ロイがなんで今逃げ出したかはわかんねえ。でも、ふたつわかったことがあるんだ」
「ふたつ?」
「マクマラン・ジュニアはイシュヴァールにいた。その後、紆余曲折を経てマクマランの養子になった。それまで跡取りを作らなかったじいさんが何の気の迷いかって話だが、元々、じいさんは、ロイの事をかぎまわってやがったんだな、これが」
「…かぎまわってた?」
「だからロイと同じ隊にいた人間に近づいた。…マクマランのじいさんが仕事を始めたのはウェストのはしっこの小さな村だっつうんだけどな、そこの記録が少し残ってたんだ。小さな診療所があって、そこに働いていた人間の名簿と一緒に、写真が何枚か残ってた。まさか残ってるとは誰も思わなかったんだろうけどよ。その時その小さな村の診療所が、たまたま表彰されたんだ、地域医療のなんとかっつってな」
「…写真…何がうつってたんだ」
「俺も現物は見てない。電話で確認しただけだ。でもな、エド。相手はこう言った。医者らしい人間が何人かと、業者として若い頃のマクマランが写ってる。裏に名前が書いてあるが、ひとりだけ名前を書いた後に上から消しこみを入れている人間がいる。ファミリーネームは読み取れないが、ファーストネームはロイ。但し書きを付け合せていくと、黒髪黒目の、二十代半ばくらいの男がそれだと思う、そう言ってた」
「―――」
エドワードはまじまじとヒューズを見上げた。
「全部推論だ。どこにも証拠なんてない。荒唐無稽な、与太話だ。でも、エド」
「…でも?」
「俺もエドと同じだ。まだあいつに消えて欲しかねえ」
互いの目を見合わせて、それからふたりは笑った。
「あいつ、無能のくせにモテモテだ」
「まったくだ」
「んじゃ、オレ、あいつぶん殴ってくらぁ。後よろしく、中佐」
晴れ晴れと笑ったエドワードが拳を鳴らし、そのあまりにもすさまじい音にヒューズの部下はおののき、ヒューズ自身はこう思った。ロイも顔が変形されなきゃいいけどね、と、他人事のように。
少し時間はさかのぼるが、駅でエドワードに逃げられた後のマクマラン・シニアと、逃がしてしまったマクマラン・ジュニアは、結局一度マクマラン本邸へと帰っていた。計画が狂ったので、建て直しを余儀なくされたのだ。
今ジュニア、養子になった男は、地下室で尋問にあっていた。尋問というか、半ば拷問に近いものだったが。
「なぜ、あの子供を逃がしたのかな?」
部下に養子を痛めつけさせながら、淡々と老人が尋ねる。しかし、男は何も言わず、ただ黙って義父を見返すだけだった。
「今更あの化け物に義理立てか?意味がわからないな」
「…化け物はどっちですか」
ぽつりと男は言う。
脳裏に蘇るのは、あのひどい戦場の事だ。あの時、逃げ遅れたあの時に、自分は死んでしまうと思った。だが死ななかった。今は大佐と呼ばれる男が、引き返して来てくれたからだ。
致命傷だった。近くで見ていた自分は、他の誰よりもそのことを知っている。あれは、助かる怪我ではなかった。だがあの男は、ロイ・マスタングは死ななかった。どころか、その夜近くの森に入っていったと思ったら、翌朝何食わぬ顔をして、食料を担いで帰ってきたのだ。
確かに脅威である。化け物と、そう称されてもおかしくはなかった。
だがどうだろう、と今更に思うのだ。
確かにあの男が、この義父のいうように不老不死だったとして、だ。それで一体誰が迷惑をこうむったのだろう。現に自分は助けられたのだ。それよりも、執拗にあの男を追うこの老人の方が何倍も化け物じみている。その執着も、執念も。
「…確かにあなたには恩がある。だが、あの人にも恩があるんだ」
ぽつりと言えば、ふん、と面白くもなさそうに老人が鼻で笑った。
「身の程を教えてやれ」
つまらなそうに言い捨てて、老人は養子に背を向ける。男の胸倉を尋問に当たっていた人間が掴んで机に押し付けるが、恐怖などは感じなかった。恐怖なら一生分を既に知ってしまっていたから。
男は目を閉じ、セントラルまでの短い旅をともにした少年と、かつて自分の命を救った男の無事を祈った。
収監されていたマスタングが逃亡した、という報は、軍内部にも手足を伸ばすマクマランの耳にすぐに届いた。