灰とバロック
どこに行くつもりかはわからないが、マクマランにはひとつだけ心当たりがあった。自分の寝室の金庫に隠された、始原の灰である。
その情報は自分以外ではほとんど知るものもいないが、養子にしたあの男は気付いていたかもしれない。あの夜、ロイより先に宝石商を訪ねさせたのはあの男だったからだ。だが今の所マスタングにその情報をもたらせる者は皆無だ。
あの男は始原の灰を捜している。
そうであれば、これを餌におびき寄せることは出来るように思っていた。老人は顎をさすり、小さく笑った。
「…全部わしのものだよ」
――昔見かけたときのままのあの姿を見て、老人の中に生まれたものは言葉には出来ない。
今のロイ、マスタング大佐を見かけたのは、イシュヴァールが終わった後、続々とセントラルへ帰ってきた列車の中でのことだ。それは本当に偶然の出来事だった。たまたま商用で乗り合わせた列車に、イシュヴァールからの帰還兵の一団が乗っていたのだ。全車両が貸しきられていたわけではなく、乗っていたのは限られた人間だったらしい。恐らくは、戦功ある人間、という区分だったのだろうが。
青い軍服を着こなすその顔は、かつて、小さな村の診療所で見かけた男と同じ顔だった。
最初は偶然だと思ったのだ。世の中には三人よく似た顔の人間がいるというし、もしかしたら、あの男の孫か何かかもしれないと。だがどうしてもそうやって捨て置くことが出来なかった。
…その診療所には思い出があった。どちらかといえば苦い思い出だが。
診療所で働いていた女医に、マクマランはまいっていた。何度も誘いをかけたがしかし、すげなくあしらわれていた。それだけならどこにでもある話だ。女医が、素性の知れない流れ者の男に惚れていた、というのも。物語としても御粗末過ぎるエピソードであろう。
しかしその男には秘密があった。マクマランはその時は信じていなかったが、聞いてはいたのだ。数年後、何も言わずに去った男のことを、女医はこう言っていた。あの人はひとつの所にいることはできない、と。そういう性質の男なのかと思ったが、あの人は永遠を生きている、という女医の言葉がどこかで引っかかっていた。変だと思う点は幾つかあって、男は、村にやってきた当初からずっと年を取っているように見えなかったのだ。
だがそれでも、捨てられた女の妄想だと思って取り合わなかった。男が去っても自分を受け入れなかったその女が、おかしいのだと。
それきり、その流れ者の男のことなど忘れてしまっていた。当然だ。彼にとって、その男の記憶はけして愉快なものではなかったのだから。
だが、その車両で。仲間に囲まれて微かに笑うその顔を見たとき、マクマランの中で時間が急に巻戻されたのだ。
仕事を始めたあの小さな村の記憶が蘇って。女医の台詞が、蘇って。
それからロイのことを執拗に調べた。案の定、マスタングの経歴には謎が多かった。それでよくも軍に入れたと思うような部分が多々見られた。
彼が始原の灰を探しているらしい、と知れば、始原の灰についても調べた。そして奇妙な符号に気づいた。
マクマランが昔あの男を見かけた時、始原の灰と呼ばれるそれは、あの村の近くにあったのだ。村の近くに住んでいた富豪が所有していた。もしかしたら、ロイはその時もあれを探していたのかもしれない。
どこにも確証はなかった。しかも、あの男が本当に永遠の命を、若さを持っているのかも定かではなかった。ただの夢かもしれなかった。
それでも、何かにとりつかれたように、マクマランは調べ続けた。
そして知った。始原の灰には、不老不死の言い伝えがあることを。それを手にしたものが蘇ったという伝説と、昔、賢者と呼ばれた人々が所有していたものである、ということまで。
さすがに軍の佐官が相手では、何か理由をつけて取り込むのはなかなかに難しい。だから機会をうかがっていた。その過程でイシュヴァールでロイと同じ隊にいた人間も取り込んで証言を取った。
本当に、今か今かと待ち望んでいたのだ。マクマランは。
そしてチャンスは訪れた。
「…貴様だけが与えられていいはずがない」
老人の目に暗い妄執が落ちたが、誰もいない部屋でそれを聞きとがめる者はいなかった。
ロイがどこに行ったのかはわからなかったが、エドワードは、とにかく、マクマラン本邸へ殴りこむことにした。負ける気は全くしなかった。
あの男が言ったのが本当かどうかもわからないが、確かに老人が駅で待ち構えていたことは本当だったから、全くの嘘ということはないだろう。そして全くの嘘でないのだとしたら、あの男、マクマラン・ジュニアの安否も少々気になる。
エドワードは、彼を、敵の真ん前に置いて逃げてしまったことになるからだ。それは、非常に男らしくない。
一度は身を隠すために脱いでいた赤いコートを颯爽と翻して、エドワードは堂々とマクマランの門をたたいた。考えてみれば、逃げる必要などどこにもなかったのだ。そして、逃げるなんて、エドワードの主義ではない。正面から戦ってやりぬくのがエドワードの流儀だ。
来訪を告げれば、応対の人間には少し戸惑いが見えたものの、すぐに中に通された。応接間らしき部屋で主人が来るのを待ちながら、エドワードは拳を鳴らす。本職の軍人たちさえ震え上がる、それを響かせる。
矢でも鉄砲でももってこい、という気分だった。
さして待たされることなく、屋敷の主はやってきた。小柄な老人であったことに、何となくエドワードは驚いた。その落ち窪んだ目や、それなのに異様にぎらついて見えるような瞳まで含めて、何となく変なじいさんだな、と眉をひそめた。さすがに口には出さなかったけれども。
「初めまして、だな。鋼の錬金術師殿?」
「ああ。初めましてだ。そしてすぐにさよならだ」
「…?」
「オレは腹芸ってやつが嫌いでね。単刀直入に聞くけど、あんた、始原の灰って真珠、知らないか」
横柄なエドワードの物言いに不快な顔を見せるでもなく、ただ、老人は、様子をうかがうように目を細めた。エドワードはかまわず続ける。
「オレ、あれを探してるんだ。勿論ただでとはいわない。そっちの言い値でかまわないぜ」
「ほ、…それはまた大きく出たものだ、少年」
「大物なんでね」
つまらない冗談を口にして、エドワードは不敵に笑った。
「で、どう?持ってるんだろ?」
「さぁて…どうしてそんな結論に至ったのか不思議だが…生憎、そんな名前聞いたこともない」
「そりゃないだろう」
エドワードはつまらなそうに鼻を鳴らしてつきつける。
「あんた、息子さんどこやった?」
「…息子? さて、どこへ行ったやら」
「セオリーなら尋問中ってとこか。なあ?」
「何の話かさっぱり…」
エドワードは一端口を閉ざした。
「――あんたはあれがなんだか知ってるのか?」
「…あれ、とは?」
「始原の灰。本当に、理解しているか?」
少年の顔から幼さがそげ落とされ、どこか神がかったようにさえなる。老人も、しばしその変化に目を瞠っていたようだった。
「あれは人間の手に負えないもんだ」
「手に負えない?」
「化け物を作るだけ。だから、回収しなくちゃいけない」
「化け物…と、は」