幸福論
ウェストの、変声期を迎えていないボーイソプラノが風呂場からダイニングへ、さらにこのキッチンへと響いてくる。その甲高い声に混じって、やんわりとした鬼柳の声がかすかに聞こえ、ニコはテーブルに食器を並べながらくすりと笑みを落とした。元々、鬼柳がこの街に来てからのことではあったが、こうして鬼柳と一緒に三人で住むようになってから、ウェストはより一層鬼柳に懐くようになった。
夕食のスープを温めながら、ニコは考える。初めは鬼柳を「兄」のように慕っていたウェスト。しかし最近の懐きっぷりは、兄というよりはむしろ―――父を相手にしているように見えるのだ。昼間、鬼柳の行いが父親を思い出させたのもそうだが、どこか鬼柳は自分達姉弟に対して、「親」のように振舞う。それに気付いたのはここ最近のことであるが、それがやたらニコの心に引っ掛かっていた。己の気にしすぎなのかも知れない。しかし、そう思わざるを得ない理由もあるのは確かであった。
「お腹すいたー!」
そう言って顔を蒸気させたウェストが風呂場から戻ってきた。暑いのだろうか、用意したシャツは着ておらず、せわしなく手をぱたぱたと仰いでおり、ぽたぽたと髪からは雫が落ちている。ニコがむっと顔をしかめ、ウェストを諌めようとした時、タオルとウェストのシャツを抱えた鬼柳が戻ってきた。シャツを椅子にかけると、タオルをがばりとウェストの頭にかけ、わしゃわしゃとに掻き回した。
「こら、ちゃんと乾かして服着ねぇと風邪引くぞ?」
一通り掻き回した後、椅子にかけたシャツを手に取ると乱暴にウェストの頭にかぶせた。ぐいっと下に引っ張ると、どこかにやけているウェストが顔を覗かせた。元々ウェストはこんな幼子のような行いをする性格ではない。しかしここ最近、それが目立っている。このことに気付いたのも、ニコが鬼柳と父親をかぶせて見えるようになってからのことだった。ぐっ、とこみ上げるものをまた飲み込むと、ニコはスープを深皿に掬い、テーブルに並べた。
「ご飯にしましょうか」
†
日も沈んで随分と時間が経つと、やんわりと染み渡るように肌寒さがやってきた。ぶる、と夕食の後片付けをしていたニコが身震いをし、窓から外を見やった。街の灯りも大分落ち始めたこの時間帯から、夜空の星達がいっそう煌びやかに見えてくる。ネオ童実野シティからじゃ見ることの出来ないこの夜空を、ある日鬼柳が「きれいだ」と言ったことをニコは忘れられない。ニコにとって何てことの無い見慣れた風景。それがたった一人の人間の発言で、こんなに尊く美しく感じる物になるとは思ってもいなかっただろう。
やや不安な軋みを奏でる階段を上り、ニコは寝室へ向かう。2階にはニコとウェストが使っている子ども部屋兼寝室と物置、そして鬼柳の部屋(元々は父親の部屋であった)がある。自室のドアを開けると、ふわっと涼しげな風がニコの頬をくすぐった。昼間に掃除をした時、開け放していた窓がそのままだったらしい。ふわふわと揺れるカーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいた。はて、とニコがベッドを見やると、いつもこの時間なら寝ているはずのウェストがいない。ニコは、はぁ、とため息を付くと、一旦部屋を出て、鬼柳の部屋のドアを小さくノックした。
「おう、どうした?」
鬼柳の声を聞いたニコは、ゆっくりとドアノブを回して中に入った。カーテンは閉められていたが、ベッド脇に置いてあるスタンドライトの光がぼんやりと室内を照らしていたため、ベッド寝転がっている鬼柳も、鬼柳に寄り添うように寝息を立てているウェストの姿も、はっきりと確認できた。
「ごめんなさい、ウェストがまた…」
「いいって。一緒に寝たほうが暖かいしな」
「よくないです」
ぴしゃり、とニコは言い放つと、つかつかと鬼柳とウェストが寝ているベッドに歩み寄った。へら、と笑っていた鬼柳の顔が、驚いた表情へ変わり、ニコを見上げる形となる。
「私達姉弟に、そんなに気を遣わないで下さい」
「気を遣うって…別にオレは」
「父は、あなたの所為で死んだわけじゃないです!」
鬼柳のはっと息を飲む音が、聞こえた気がした。
鬼柳は人知れず悔いていたのだ。己がこの街に来なければ、街を混乱に陥れることも、人々の命が失われることも無かったと。そして彼はせめてもの罪滅ぼしとして、この街の再建に全力を尽くすことに決めたのだ。そして、ニコとウェストを、父代わりとして見守ることも。
「ニコ…」
「もし鬼柳さんがこの街に来てくれなかったら、きっと街はその名の通り壊れ果てる運命でした!あなたが来てくれたから、街はこうして前に進むことが出来たんです!」
鬼柳の瞳に憂いの色が浮かぶ。ニコは自分が悪いと思っている鬼柳を見るのが辛かった。この街の一件は、街人全員が等しく罪を持っている。何も鬼柳が一人で抱え込まなくてはいけないことなどない。現に街に住む人々は、鬼柳を信頼し、一目置いている。あれほどの騒動があったにも関わらずだ。
「だから…無理、しないで下さい…っ」
今まで吐き出されることの無かったわだかまりを鬼柳にぶつけると、ぽろぽろとニコは堰を切ったように泣き出した。ぐしぐしと両手で目を擦っても、溢れ出る涙は止まらない。かくん、とニコは膝を折り、ベッドに顔を伏せる。泣いたら鬼柳は心配するだろうから、何があっても鬼柳の前では泣かないと決めていたのに。ニコにはせめてこれ以上、顔を見られないようにするのが精一杯であった。
「…ニコ」
鬼柳の優しさを孕んだ声が、より一層ニコの涙を誘う。ニコが沈黙を続けていると、ふわりとニコの体が宙に浮いた、否、正確には抱え上げられた。上体を起こした鬼柳が、両手をニコの脇腹に添え、ぐっと持ち上げたのだ。ぱち、とニコの黒い瞳と鬼柳の金の瞳が交差する、と思ったのもつかの間、ニコはそのまま鬼柳の元に引き寄せられ、彼の胸元に収まった。
「き、鬼柳さ―――」
「―――ごめんな」
突然の謝罪が頭上から降ってきたが、顔を見ようにも、頭を抑えられている所為で首が動かせない。
「オレ、ちょっと負い目感じてた。オレ一人で何とかしないといけないって。ニコもウェストも、オレがちゃんと世話見ないとって。特にウェストは、まだ甘えたい盛りなんだろうし…お前に対しても…」
ぽつり、ぽつりと鬼柳の胸の内が語られ出す。ニコは黙って、それに耳を傾けていた。ニコは鬼柳の声が好きだった。声だけじゃない、触れた体から伝わってくる温もりも、真っ直ぐな金色の瞳も、女性のように細い銀髪も、すっきりしたその体躯も、全部大好きだった。好きな人が思い悩んでいるのを見過ごせなかった。ちょっとでもその苦しさを共有したいと思っていた。それで少しでも好きな人が楽になるなら、これ以上の幸せは無いと。
「でもソレが逆に、ニコを苦しめてたんなら、世話ねーよな。ほんと」
「…こう言っても、鬼柳さんは自分で抱え込んじゃう性格だって、私もわかってるんですけど、」
「うん」
「もっと自分を大事にして下さい。あなたはもう、不幸を呼ぶ死神でもなんでもない、鬼柳京介と言う一人の人間として、幸せを求める権利があるんですから…」
「……そう、だな」