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闘神は水影をたどる<完>

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 手渡した紙包みを解いてもイザクが無表情なのを見ると、ロゼリッタは慌てて言った。
「貴方のことを、サルガン様から教えてもらいました。大変な目に遭って、それでも持っていたのだから、とても大切なものなのではありませんか。リグド兄様が、割ってしまったけど」
 イザクは包みのなかにある焦げた破片を見つめた。
 あのリグドという一等兵が割る前に、持ち主であるイザクが原形を留めないほど叩き割ったのを忘れたのだろうか。突き返すのも馬鹿馬鹿しく思えてきて、無言のまま破片を包み直すと懐へ納めた。
 オベルの王女はイザクと感覚が異なるのだ。ふたりの歳も一回り以上離れているように思えた。長年培われた常識を――己をかたどるものを、矯正するのはなかなか難しい。そして甘さにも似た理想を目の前に見続けるのは眩しすぎる。
 イザクはロゼリッタにこの場を自ら去ってもらおうと口を開いた。
「これは俺をナサから脱出させた祭祀が持っていたものだ」
 知らず懐に押しつけていた右手に気づき、わざとらしくないようそっと腰の横へ戻した。イザクの希望とは裏腹に、ロゼリッタの大きな黒い瞳が一心にその手を見つめ続けていたので、イザクは手の甲にじわりと痒みを覚えた。
「俺たちは衣服を取り替えた。もう俺も祭祀も、自分の血やら相手の血やらでぼろぼろだ。取り替えた神の法衣も人間の皮膚を剥いで身に着けたみたいな心地だった。祭祀は最後の最後まで鏡を抱いてなにか呟いていた。なにを? 俺に死んではならないと呪っていたんだ。どんな地獄に行き着いても死ぬことは許さないと。死んでいればいいと思う。俺の服を着たのだからそれは惨たらしく殺されただろうが。俺がいま地獄に堕ちたらもう一度、祭祀が俺を殺すだろう」
 ロゼリッタは青ざめた顔で両足を震わせていた。イザクはちょうど目の前で小刻みに揺れる細い足首から目を逸らし、舞台上の吟遊詩人のように恭しげに頭を垂れた。御伽噺は終わりである。どこか遠い国で起きたことは、すべて凄惨な御伽噺なのだ。
「このような祝儀の夜につまらぬことを申しました。私などとともにいても余興にもなりません。どうぞみなが待たれる広間へ」
「いえ」
 小さな返事とともに萌葱の裾が摘まれた。イザクは微かに息を吐き、華奢な足が立ち去るのを待った。しかしなかなかロゼリッタは歩き出さず、イザクはちらりと視線を上げた。
「では貴方は絶対にそれを捨てられないのですね。民の願いを捨ててはいけないもの」
 広間のほうで拍手が湧き起こった。なにか演し物が始まったようだった。ロゼリッタは拍手が鳴りやむのを待ち、ゆっくりと考えるように言った。
「わたしは貴方のあの憎しみを恐ろしく感じたけれど、どうして憎まれたかわかりませんでした。貴方の無差別攻撃に入ってしまった、理不尽なものすら感じました。あとで貴方が言ったことを考えました。ああ、そんなふうに笑わないで。わたしは真剣です。けれどちゃんと理解することができたか自信はありません。教科書に書かれた正解のように感じるの。わかりません。でもわたしは貴方に会って、わたしが生きていたと、知りました。だから貴方がここまで生きてきたことを嬉しく思います。わたしが言うことではないけれど、オベルは必ず貴方の国を助けます」
 ロゼリッタはもう一度着物の裾を広げて、くるりと王邸内へ戻っていった。萌葱の色が軽やかに夜風に舞う。イザクは胸に押しつけた右手に歪な硬さを感じながら、充分に待って立ち上がった。
 ロゼリッタの小さな姿はもうない。辺りには花の香りが漂うばかりである。新生王女の名に取った、ベルナディンという白い花だという。
 イザクはこの日初めて、オベルの新たな王女誕生を心から祝福した。

作品名:闘神は水影をたどる<完> 作家名:めっこ