闘神は水影をたどる<完>
「フェリド殿、貴殿のこたびの行いはファレナにとって礼を尽くして余りあるものですぞ。どうか我らにその機会を与えていただけぬか。吾輩は、貴殿には女王騎士に値する気概があるとさえ思うております」
「ガレオン、よい。フェリドは来ない」
アルが静謐さを湛えていった。凛としてフェリドを見つめ、微笑む。男装してなお滲み出る美しさに、フェリドも目を細めた。
「無理をいって申し訳ありませんでした。でも、いつか私が統べるファレナに来ていただけませんか。潮の向くまま、風の向くままで構いません。オベルに劣らず美しい国です。この目に映るすべてが美しいわけではないことも知っています。でも見て欲しい、貴方に」
「必ず」
フェリドは右手を差し出した。きょとんとするアルに頭を掻いて、掌を着物に擦りつけて再び差し伸べる。アルは吹き出し、そういうわけではありませんと小さく詫びてから両手でその無骨な手を包んだ。柔らかい果肉が素っ気ない種を包んだ、ひとつの実のようだった。
指のひとふしごとに滑り離れていくアルの温もりに、フェリドは不意に痛烈な郷愁を感じた。離れた手をもう一度強く握り締める。アルは目を瞬かせて握られた手を見つめた。
「必ず行く」
フェリドの真剣な声音にアルは頷いた。手がそっと握りかえされ、今度こそ放した。微かに残る柔らかさが肌一枚上のところを優しく覆い、冷たい海風に吹き飛ばされていった。
「また会いましょう、フェリド」
アルが静かに腰を曲げた。続く女王騎士がそれ以上に低く跪く。いん、と馬が嘶き、蹄の音が去っていく。
耳に入るのが寄せるばかりの潮騒になっても、アルは顔を上げなかった。込み上げてくる感情を押し止められず、視界が歪む。瞬きをした。石畳の上にふたつ並んだ黒い染みを見て、ようやく顔を上げた。フェリドの姿は影もない。
「ガレオン」
ガレオンがすっと立ち上がり、アルに手綱を一方手渡した。アルの赤い馬が軽やかに駆け出していく後ろを、ぴたりとついて走らせる。
オベル主港に、ふたたび静寂が訪れる。
埠頭の先に碇を降ろした大型船舶が休息につき、巡回に出た小型船舶の淡い光が海上に浮かんでいる。打ち寄せる波がときたまぶつかり合い、白い石畳を濡らした。すっかり晴れ渡った空に、満月に程近くなった月が燦々とゆく道を照らす、力強い夜だった。
見上げた月が朧月に見え、アルは数度瞬きを数え、眦に残っていた涙を落とした。通りに立ち並んだ家の軒や桟橋に積み上げられたもやい網の隙間に、底の見えない影があった。
まだ更けたばかり。夜明けは遠い。
アルはフェリドの旅の無事を海の向こうで眠る太陽に願い、胸にしまった。
作品名:闘神は水影をたどる<完> 作家名:めっこ