8月
さてどうしたものか、とユーリは待っていろと言われた状態で何十分か止まっていた。
さすがに同じ姿勢ではそろそろ背中が痛くなってきたと思い、左腕を伸ばして手探りで床に触れる。
フローリングの床には散ばっているのか、指先にざらざらしたものとちくりと刺激するようなものが触れ、痛みが走ったので、やっぱり割れてたか、とユーリはため息をついた。数歩先にはラピードの気配がしているが、来るなよと伝えてあるため大人しくそこで待っている。
痛みが走った指先を唇に当てたが血は出ていないようで、ユーリは安堵して息を吐き出す。
しかし手で確認する限り、自分の周りを囲うようにそれが割れてしまったらしく、身動きが取れない。怪我をしてもユーリ自身は問題がないと思っていたが、状況が想像できないので下手に動いてまた何かを割るのはさすがに気が滅入る。砂糖を探していただけなのに、なんという有様、と重いため息をついた。
部屋の中にはいつから降り出したのか、雨音だけが跳ねるように聞こえる。
何年か前までは時計が指針を刻む音も聞こえていたが、自分の耳には聞こえすぎて煩わしかったので音がしないのに買い換えた。
そうしたら、もっと静かになってしまって、ユーリはなんだかなぁ、と思ったことがある。こうしてまたいろいろなものを失くしてゆくのかと漠然と考えることも、増えた。
しばらくの間、ぼうっとしていると、こんこん、と突然静寂を支配する部屋に音が届いた。次いでかかっている鍵を外から外す音にユーリは、あれ、と思い、ラピードにジュディスだと声をかけた。
扉が開いてユーリと呼ぶ声に、返事をした。
急ぎ足でこちらにくる音といつもより忙しい呼吸音に悪いことしたな、とユーリは思った。が、それをけして言葉にはしたりしない。
割れたものと零したものをジュディスが片付けて、ユーリはどこか怪我はしていないかと確かめられた。どうともない、と言うとジュディスがほう、と息を吐いたのに、ユーリは苦く笑った。
でもすぐにチョコレート、と言うとジュディスは呆れたように笑い、はいどうぞとユーリの手に箱を触れさせた。
「どっちも手作りなの」
「へぇ。でも甘くないケーキってどういうことだよ」
「抹茶のシフォンケーキよ。作った人が甘いの嫌いで」
「それなのに作るのか? 変わったやつだな」
楽しそうに口元を緩ませるユーリにジュディスは本当に甘いものが好きなんだなと思いながらチョコレートとシフォンケーキをお皿に用意した。
何か飲むかとジュディスが聞くとユーリは水でいい、と言うので天然水を冷蔵庫から出してコップに注いだ。
この家にあるものは、アルトスクの家にある食器からなにまで、まったく趣味が違う。ユーリの方は、シンプルで質素だ。しかし、ジュディスにとってはどちらも心地良いものでもあるから、不思議で仕方ない。
そういえば、とユーリがシフォンケーキを食べそうになって手を止めた。
「来るの、早くなかったか?」
ジュディスはそれに、ふと車を待たせていることを思い出して、どうしようかと迷った。
「車で送ってもらったの。ほら、雨降ってるでしょう」
「ああ、なるほど。それで早かったわけか」
「ええ、そのシフォンケーキを作った人に、ね」
ユーリは指先で皿の位置を確認しながらフォークを刺し、ケーキを口に運ぶ。
口にして何度か噛んで、噛んで、手が止まる。
ジュディスは突然動きを止めたユーリを不審に思って名前を呼んだ。反応がないので手に触れると、焦点の合わない黒い眼が少し動揺したように揺れてジュディスを映した。
「ユーリ?」
「ああ、悪い。良い甘さで驚いてた」
「良い甘さ?」
「優等生みたいな味」
「あら」
ユーリの動揺はすぐに消えて軽口を叩くので、ジュディスは深く考えずにユーリの言葉を受け止めた。そうしてユーリはジュディスに礼を言って、車を待たせているのだろうということ何気なく言い当てると、満足そうに口元が弧を描いて、今日はもう大丈夫だから、と言う。
半分で手を止めてしまったシフォンケーキをなんとなく横目で見てから、ジュディスはユーリとラピードに見送られながら扉を閉めた。
急ぎ足で送って貰った車の元へ帰り、にこやかに迎えいれてくれたレイヴンに、ジュディスはあの明らかに動揺して揺れたユーリの黒い瞳を、ふと思い出した。
あんな瞳を見たのは、はじめてだった。