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8月

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06.蝉時雨は別れの言葉に真似て





たなびく雲は夕日の色に染まりながらも流れていて、その隙間から光さえ差し込むのに、雨が降っていた。蝉の声もところどこから聞こえてくるが、どことなくそれが遠く聞こえる。
レイヴンは仕方なくアルトスクの家から出る際に押し付けられた傘を広げた。持っていけ、と言ったのはハリーだったけれど、雨なんて降るのかと疑っていたレイヴンにリタが今日は夕方降るわよ、と確信めいたことを言ってきたのだ。
レイヴンはさらに疑った。

「天気予報がそう言ってた?」
「違うわ、勘よ。それに雲の動きが早すぎるんだもの」
「・・・リタっちは気象予報士にでもなるの?」
「今のところそんな予定はないわ」

あっそう、とその時は返したがリタの勘は見事に的中したわけだ、とレイヴンは広げた傘をくる、と回す。
少々値が張りそうな蛇の目傘のようなデザインのそれは深い紫色をしていた。一体誰の趣味だ、と思いながら駅へと続くアスファルトを歩く。
ひたひたと降る雨音を聞きながら、道行く人たちを視界に入れた。
傘をさして歩く人や自転車で過ぎる人、傘を持っていないのか持っている鞄を頭上に上げて早足で過ぎてゆく人たちを眺めて、レイヴンはふと腕にした時計を見る。時間は大丈夫。余裕があるなぁとゆっくり歩みを進めるために速度を落として、ふと、道路を挟んだ向こうの歩道が目に入ってレイヴンはぎょっとした。
黒く長い髪に、ふてぶてしい犬。
それはある日のある時間にいつも見ていた青年と犬だった。
彼は右手になにやらバックと買い物袋を提げ、左手に犬がしている白い胴輪から続くものを握っている。
それは別にたいしたことじゃなかったけれど、レイヴンが気になったのは傘を差していないことだった。
降られてもそれほど濡れやしないだろうけれど、彼らのことを一方的に知っていたレイヴンとしては見過ごせない衝動にかられた。
どうしようか躊躇して、だけど小さなくしゃみが青年から聞こえて、レイヴンはたまらず道路の安全を確認して一気に渡った。そんなレイヴンを気にすることもなく淡々と歩く青年にレイヴンは少し駆け足で近づいて、呼び止めた。

「あの、そこの青年。ちょっと待って」

相手は少なくとも眼が見えていないことをレイヴンは念頭に置きながら、驚かさない程度の声を出す。
しかし、まさか自分とは思わないのだろう青年は、止まる事も反応することもなく歩みを進めて行く。だけど隣に居る犬がやけに後ろを気にしだしたのを気配で感じたのか、青年は首を傾げた。

「どうかしたか、ラピード」
「ほんと賢いワンコよね。おっさんびっくりするわ」

急に隣から聞こえた声に青年の肩が震えた。
レイヴンは左手に傘を持ち替えてその青年の反応に、まぁ当たり前だよなぁ、と思い青年の方に傘を傾けた。
歩みは自然と止まり、通行人が疎らな道の端っこに移動して、レイヴンは青年の濡れた髪をカロルに持たされたハンドタオルを出して拭き始めた。

「誰だアンタ」

髪を拭われることを拒絶しない代わりに言葉に刺々しいほどの拒絶を感じる。
まぁそれが普通だよなとレイヴンは男にしては艶やかな髪を拭きながら、まずは謝罪した。

「急にすまんね。ただの通りすがりのおっさんです」
「ただの通りすがりのおっさんがオレに何か用」
「いや、純粋に雨に降られてるのが見てられなくてさ」
「そうですかそれはわざわざありがとうございましたそれでは」

早口で感情のこもらない声。
それが言い終わるのと同時に、また雨の下に歩き出そうとするのでレイヴンは慌てて手を取った。
確かに傍から見れば絡んでいるのは明らかにレイヴンで、不審者なのもレイヴンなのだろう。しかし声をかけてしまったのだから、ここは最後までおせっかいするつもりで、レイヴンはまた青年を傘の中に入れなおす。

「不審者っぽいけど、違うから。悪いけど、青年のことは知ってる」
「・・・はあ?」

ユーリはレイヴンが居る方向へと視線を向けて、怪訝に眉を寄せた。
焦点は確かに合わないけれど、彼が盲人であることを忘れてしまいそうなほど真っ直ぐに見てくるなぁ、とレイヴンは少したじろぐ。
しかし此処で引いてしまうと声をかけた意味がない。それでも何故自分が此処までこの青年を気にかけているのか、レイヴンは少し疑問に感じたけれど、今はそれどころではなかった。

「あの、この前。駅のホームでワンコが吠えなかった?」
「・・・。ああ、あった」
「あれ、おっさんのせいでさ。なんか混乱させたみたいだったし、悪いことしたなって」

苦く笑いながら怪訝に見てくる青年とその傍に座り込んだ犬を窺い見る。
犬はしっかりとレイヴンを見返してきて、レイヴンはそれに口元を吊り上げて笑う。やはり言葉が通じているとしか思えなかった。
青年はレイヴンの言葉に何か感じたのか、少し思案するように黙った後、ああ、あんたか、とまるで知っていたかのように呟いた。

「え?」
「あの駅の向かい側にいつもいたの、あんたなんだろ?」
「え、あ、うん。何で、分かったの?」
「気配と声、かな。時々欠伸とかしてただろ」
「ああ、なるほど」

レイヴンは傘の中にちゃんと青年が入ってることを横目で確認しながら、自分が認識されていたことを驚いていた。一方的だと思っていたのに、向こうもちゃんと意識してくれていたらしい。
なんだか世の中怖いなぁ、とレイヴンは思う。だけど反対に、認識されていたことが純粋に嬉しかった。
もう一度、湿った髪をひと拭きする。青年身長高いなーと言うと、なにおっさん低いの、と返ってきて少し泣きそうになる。気にしているわけじゃないけれど、地雷を自ら踏んでしまった感じで、苦笑い。

「今から青年はどこ行くの?」
「家帰るとこ」
「へえ。なら送ってっていい?」

レイヴンは時計を見て、まだ随分時間が余っていることを確認してから傘を持ち直した。
青年が雨に降られながらも歩いて帰るくらいなのだからそんなに距離はないのだろう、と考えての発言だった。
しかし青年には意外な言葉だったらしく、解せないという表情をして口を開いた。

「そこまでしてもらう義理はねぇよ」
「いやぁ。おっさんお節介やきなのよ」
「・・・・・こんなところにもほっとけない病患者、か」

青年はぼそりと何かを呟き、渋々と了承した。
レイヴンはそれに驚いたが、あえておくびに出さずに笑みを作る。
好意は基本甘んじて受けるんだなぁ、と思って、重そうな荷物を見て持とうかと言うと、即座に拒否された。甘んじて受けるつもりと言うわけでもないらしい。
ゆっくりと犬が歩き出して、レイヴンも一緒になって歩き出す。青年が濡れないようにとちゃんと傘を傾けながらいると、突然青年がレイヴンを振り返った。

「そういえば」
「うん?」
「名前」
「・・・ああ。そういえば」

なんだか今更だなぁと思いながらレイヴンは、名前を名乗る。別に名乗らなくたっていい気もしたけれど青年はそうもいかないだろ、と言うので思わず首を傾げた。

分からないならいい、と口を吊り上げて嫌味な笑い方をした青年は、ユーリ、と名乗った。


作品名:8月 作家名:水乃