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8月

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05.雨粒よピチカートに似せて





雨が降ってきたと騒ぎ出したカロルにリタが面倒くさそうに深いため息をつき、椅子に座って読んでいた参考書を机に叩くように置き、立ち上がった。

「洗濯物入れたのー?」

ハリーはジュディスのためにハーブティーを入れていて、洗濯物を入れるのには相当な格闘を繰り広げるだろうカロルの様子を見に行ってくれたリタの声にほっと胸を撫で下ろすように息をついた。
ジュディスはそうするハリーの気持ちが分かるので、楽しそうに笑う。カロルは何でもやりたがりというか、器用なのだけど、どうしてもここぞというところがいまひとつ決まらなくて、最後はだいたい悲惨なことになる。
それを最近、見兼ねたのかリタがぶつぶつと文句を言いながらも様子を見て手を貸してくれるようになったらしく、ハリーはずいぶん肩の荷が下りたらしい。さすがに年頃の下の二人の面倒を一人で見るには少々辛いものがあるのかもしれない。
ジュディスは此処の子どもでもあるけれど、所詮は引き取られた他人だと線を引いてしまっているから、純粋に兄弟のような関係の彼らが羨ましく、微笑ましかった。

「おりょ、それハーブティー?」
「あ、レイヴンも飲むか?」
「んん。おっさんはコーヒーでいいわ」

ああ、あの書類の山を焼きたい、と危ないことを言いながらリビングの隣にある書斎からレイヴンがのっそりと現れた。
ひどくぼさぼさであっちこっちに寝癖が飛び交うレイヴンの髪はめずらしく紐で結ばれていなくて、左眼が隠れるような無造作に垂らされた髪に違和感を覚える。
なんだか別人、とジュディスは胸の中でひっそり思い、ハーブティーを飲む。髪はいつもの通りにだらしないけれど。

「仕事、忙しいのかしら?」
「そうなのよー、もう嫌。書類に埋もれて死ぬくらいなら、ジュディスちゃんの膝の上で死にたい」
「ほらレイヴン、コーヒー飲んで夢から眼を覚ませ」
「え、これ夢なわけ?」

ハリーはだらけたように机にうつ伏せに沈んでいたレイヴンの目の前にコーヒーを置いて、そしてそのぼさぼさの頭に夕刊をぱすん、と音を立てて置いた。
レイヴンは低く唸りながら、頭に置かれたそれを取り、もうちょっと普通に置いてくれ、と潰れたような声を出して新聞を広げた。
ぱさ、と広げられた新聞の裏をジュディスは眺めながら、止むことのない情報の量に眼を細めた。
毎日毎日よくもまぁこんなに書くようなことがあって、かならず一面を飾るような重大な問題が起こるものだと思う。驚愕を通り越して呆れるほどで、ジュディスはその今日の夕刊の一面を飾る文字をなんとなく目で追った。
途端、机の上に置いていた携帯が震えて、ハーブティーに細かく波紋が広がる。
レイヴンが紙面から眼を上げるのと同時にジュディスは携帯画面に出る名前を確かめてから、受話器をあげた。

「もしもし」
『あ、ジュディ?』

オレだけど、と言う声にジュディスは席を立つ。
今朝会ったばかりのユーリの表情を思い出しながら、何かあったのかと心配になって玄関まで続く廊下に出た。
ユーリが自ら電話をかけてくることは珍しいから、余計に不安になる。

「ええ。なにかあったの?」
『たいしたことじゃねぇんだけど、砂糖ってさ、どこにしまってあるんだ?』

がたごと、と向こうの受話器が音を拾い、ジュディスの耳に届いた。
眼が見えないのにまた無茶して、とジュディスは手探りで棚の中をあさっているユーリを想像しながら、どうして砂糖なの、と呆れたように声を出した。

「あなた、今日料理でもするの? 夕ご飯は?」
『もう食った』
「・・・じゃあどうして砂糖を探しているのかしら」
『急に甘いもんが食いたくなってさ』

がさごと、がちゃん。
硝子が割れたような音が聞こえてジュディスは眉を寄せる。
なんだかものすごく不安になってきて、ユーリを呼びかけるけれど、ユーリはのんきに、なんか割れた、と小さく呟いた。

「ちょっと待ってユーリ。動かないで」
『はぁ? 砂糖まだみつけてねぇんだぞ』
「そうじゃなくて、すこしそのままで待っていて」

ジュディスはこのままでは明後日の朝に見に行く頃にはユーリは傷だらけだと思って通話を繋げたままリビングに戻った。
そのままキッチンに向かい冷凍庫を開けてお昼ごろに出されたチョコレートがまだ残っていることを確認して、先ほどまでキッチンに居たはずのハリーの姿を探したが、見当たらなくてジュディスは仕方なくコーヒーを飲んでいたレイヴンへと向かった。

「レイヴン」
「ん?」
「昼ごろに食べさせて貰ったシフォンケーキ、まだあるかしら」
「ある、けど。どうかした?」
「貰ってもいいかしら。友達になんだけど」

通話口に手を当てたままのジュディスを眺めてレイヴンは短く思案したように顎を撫でたが、すぐにへらっと笑い、いいわよ、と言う。
ああやっぱり別人と話してるみたい、と肩にかかるくらいの髪をぼさぼさにしたレイヴンを見てジュディスはひとりごちる。
ありがとう、と口元に笑みを浮かべて、すぐに携帯を耳に当てた。

「もしもし?」
『なぁ動いていいか』
「待って。それで怪我したら誰が手当てするの?」
『あのなぁ。そこまで間抜けじゃないとは思うぞ、オレは』
「とりあえず砂糖を取り出して舐めるような暴挙を私は許さないから待っていて。今からチョコレートと甘くないケーキ持っていくわ」

甘くないケーキ、というのを聞いてユーリは怪訝な声を出したが、ジュディスは有無を言わさないようにただ待っていろと言って通話を切った。
携帯を少し眺めてからため息をついてジュディスはレイヴンを振り返る。

「ごめんなさい。今から出かけるわ」
「チョコレートとケーキ持って? 随分な甘党さんなんだねぇ」
「手に負えないくらい、ね」

レイヴンは自分の作ったシフォンケーキさえもどうやらまだ甘い部類に入るらしく、甘くないケーキという言葉を聞いてあんなに怪訝そう(あれは不満、だろうか)なユーリの声を聞かしてあげたかった、と思い準備に取り掛かる。
適当な箱を探し出していると、リビングに戻ってきたリタがひどく疲れた様子で椅子に座った。
ホントもう散々、と怠慢そうに自分の肩を叩いて、閉じていた参考書を適当に開いた。そして思い出したかのようにレイヴンが居ることに気づいて、その向こうで急ぐように箱にチョコレートとシフォンケーキを入れるジュディスに首を傾げた。

「なに、どっか行くの?」
「ええ、ちょっと急用」
「結構雨降ってるわよ。おかげで洗濯物は濡れる、カロルはすべって転ぶし、」

くしゅんっ。
リタが小さくくしゃみをして不機嫌そうに眼を吊り上げた。
これであたしが風邪を引いたらカロルのせいね、と低く笑うのに、レイヴンはうわぁ、と思って新聞を畳んでリタから距離をとるようにジュディスの隣に行き、雨が降っていることを今更ながらに思い出したジュディスに向かって人のよさそうな笑みを浮かべた。

「道教えてくれたら、車で送るよ?」


作品名:8月 作家名:水乃