8月
歩いてきた道と、目の前に見えてきたアパートにレイヴンは既視感を覚えた。
最近見たなと建物を眺めていると、ユーリはもうここでいいと言うのでレイヴンはちゃんと雨がかからないところまで送るから、と駄々をこねる子どもみたいに着いて行った。それにユーリは苦笑。
アパートの玄関先まで来て、へえ、とレイヴンは感嘆の声をもらした。
見た感じはこじんまりした質素などこにでもありそうなアパートだけどちゃんと警備セキュリティを完備しているらしく、暗証番号入力があった。ユーリは慣れた手つきで並ぶ番号のボタンを流れるように押し、閉まっていた扉が開いて、歩き出す。そして止まっていたレイヴンを促した。
もう此処で帰るつもりだったレイヴンは瞬きを繰り返した後、まぁいいかと足を踏み入れる。
エレベーターも完備されていてそれに乗り込み、2階へのボタンが点字に沿って押される。
それを眺めながら、ああそうか、とレイヴンはユーリの背中を見た。
普段使わないものがこうして使われているのを見ると妙な気分になる。彼らにはそれが当たり前であるはずなのに、そう感じること自体が異常なのか、と考えにふけっているとすぐに扉が開いた。
「今更なんだけど、こんなとこまで来てよかったの?」
「まだ時間あんだろ? ちょっと待っててくれ」
そう言いながらユーリは慣れたように次は鍵穴に鍵を差し込む。
開いた扉をそのままに部屋の中に入っていったユーリの背中を見つめながら、眼が見えないのは先天性なのだろうかと考えていると、大きな袋を持って出てきた。
レイヴンはそれに眉を寄せる。「なにそれ」
「さあ?」
「さあ?って。それをどうしたいの」
「おっさんにやる」
「なんで」
「傘のお礼」
「なにが入ってるのか分からないのに?」
「ああ。でもたぶん食いもんじゃねぇ?」
「・・・なるほど。青年がどういう人なのか少し理解できたわ、おっさん」
「そりゃ良かった」
大変どうでもよさそうにユーリはその袋をレイヴンに押し付けた。
本当に貰ってもいいのか聞くと、好きにしていいとぶっきらぼうに返され、レイヴンは仕方なくそれを受け取った。重いので、ユーリが言うとおり食べ物なのかもしれなかった。
さて、とレイヴンがユーリに向き直る。帰るわ、と言うとユーリは黒い髪をさらりと音を立てながら首を少し傾け、壁にもたれながら感謝の言葉を述べる。ものすごく棒読みで、レイヴンは小さく噴出した。
「感情込めてよ」
「心を込めたつもりだぜ?」
「それはそれは。もったいなきお言葉で」
軽口を叩きながら、レイヴンは口元に笑みを浮かべているユーリの瞳を仰ぎ見る。
映しているようで何も映していない黒く深い色は、間近で見るとレイヴンが手に持っている蛇の目傘の深い紫にも見えた。
「じゃ、またねー」
「もうほっとけよ」
「ええ、なにそれ」
「言葉通りの意味だよ」
「ん。また会いに来るわ。場所も知ったし」
「言葉通じてるか?」
「うん、ばっちりと。そんな寂しいこと、言うんじゃありませんってね」
じゃあね、とひらひらと手を振る。
見えていないだろうけれど自然としてしまうのだから仕方がない。
一度だけ振り返るとじっとこちらを見ているユーリと眼が合った気がして、もう一回手を振った。
けれどやっぱり見えていないのでなんの反応もなく、レイヴンは開いたエレベーターに乗り込んだ。
だからレイヴンは知らない。
さあさあと降る雨音と蝉たちの声にかき消され、ユーリの唇が誰に向けられるわけでもなく、さよならの言葉をかたどったことを。