8月
07.花を摘む掌の青臭さを残して
夢を、見た。
ユーリは眼を開けて一番にそう声に出した。
太陽が昇り、その光がカーテンの隙間から漏れている中、ベットから上半身を起こして、起きぬけの乱れた髪をそのままに、しばらくの間ぼうっとしたまま動かない。
ベットの下で丸くなっていたラピードがのそり、と起き上がり、動かないユーリを見上げて耳をぴくぴくと動かした。ユーリが動き出すまでの間、ラピードはちゃんとその場所から微動だせずに座り続けて、ようやく、ふと首を動かしてユーリがラピードの居るほうを向いた。
「おはようラピード」
ぱたん、とラピードがフローリングの床を柔らかく尻尾で叩いた音がして、ユーリは口元を緩ませる。
光と闇しか認識することがなくなったこの眼でも、未だに見れるものがあるんだなと思いながら、ユーリはベットから脚を下ろした。
寝てみた夢は、忘れそうになっていた色彩の数々と人の表情を思い出させてくれた。
そしていつかの光景。
あまりにもその感覚が久々すぎて、見えるはずもないのに眩暈がしてユーリは瞼をひっそり閉じて、それをやりすごした。
***
ユーリとフレンは幼馴染で、家族同然のように一緒に育って、何事も二人で共有しながら時間を過ごしてきた。
小さな頃、あまりにも一緒に居て同じようなことするものだから双子みたい、と言われたことがあったけれど、正直言ってフレンが持つ色はユーリにはないものばかりで、フレンにもユーリが持つ色はけして持っていなかったように思っていた。
さて、何故そういう言葉で言い表されたのか、今のユーリにはもう分からなかった。
「ユーリ、ココアを淹れたから」
「サンキュ」
カチャ、と音を立ててそれが机に置かれる気配をなんとなく目で追いながら、ユーリはそろそろと手を這わせてカップに触れた。程よい暖かさのココアを喉の奥に流し込んで、もう一度ソーサーの上に置く。
かたん、と音を立ててフレンが椅子に腰掛けたけれど、ユーリにはそれがどんな色をしていてどんな形なのかは分からなかった。そもそも、この家がどういう色をしていて、形をしているのかすらユーリは知らない。
フレンとユーリの親が亡くなって、フレンは親戚の家に養子としてこの家に迎え入れられ、ユーリは大人たちの事情でたらい回しにされた。
もう既にその時点で眼が見えなかったということも大人の事情のひとつだろうけれど、ようやく決まった後見人は研究家の人間で滅多に家に帰らない独身の人間だった。そのおかげでユーリは一度、飢えと栄養失調で倒れて病院送りになった。その後にようやくヘルパーを雇うことになって、そのうちユーリはできることは自分でしようと思うようになって、難しくない料理なら作れるようになった。
そして数年後にその後見人が事故で死んでしまい、次に誰が面倒見るのかという話になったとき、フレンを養子に迎えた人間が後見人を申し出た。
これにユーリは大変驚いた覚えがあるが、ユーリは生活できる場所とその分の生活費を与えてくれるならなにもいらないと言った。今思うと、偉そうとしか言えない。学業のことはすっかり忘れていたので知らないうちに支払られていたが、いつかはちゃんとすべて返すつもりだった。
なので、ユーリはこの暮らすはずだった家の間取りを知らない。
フレンはずっと一緒に住むことを主張していたが、ユーリはけして首を縦に振らず、その頑固さに後見人は諦めて別の住まいを用意してくれた。
すぐにこういう手続きが出来る家だとあらかじめ知っていたので、多少無理な発言ができたこともユーリの中では確信していたことだった。興味はないが、有名な財閥家系らしい。
ずず、とココアを飲みながら、ユーリは空調の効いた部屋の中の気配を感じ取る。
居心地が悪いと思ったのは、たぶんきっと家具などが高級なものばかりなせいだろう、とひそかに眉を寄せる。そんなユーリにフレンは首を傾げて、ユーリと呼びかけた。
「なにかあった?」
「なんで?」
「いや、なんか。なんだろ、いつものユーリとちょっと違う気がする」
乾いたような笑い声をだして、フレンは自分に用意したココアを飲んだ。ユーリは少し間を置いてから、まあ確かに、と口元を皮肉に上げる。
「夢をみた」
「・・・ゆめ?」
「そ。夢」
久々に見たなー、とユーリは背筋を伸ばした。
色があんなに鮮やかに見えたのは久しぶりで、夢自体も久しぶりに覚えていて。
ユーリはただ、鮮やか過ぎて眩暈がした、と苦く笑う。内容は話すつもりがないらしいと感じたフレンは静かに、そう、と相槌だけ打った。
昼間の喧騒が遠くから聞こえる中、空調の音だけがやけに大きく聞こえた。
ユーリのすぐ隣で伏せた状態だったラピードが退屈そうに大きな欠伸をしたが、急に耳を動かして部屋の扉を見た。それと同時にユーリが誰か来る、と小さく呟いて、フレンは扉を振り返った。
こんこん、という控えめなノックがしてフレンが返事をすると、上品でおっとりしたような声が聞こえて扉が開かれる。
ユーリは、ああ、と納得してココアを飲んだ。
「失礼します。お話中でした?」
「いえ、大丈夫ですよ。エステリーゼさま」
フレンに迎え入れられた人間はフレンを養子に迎えた財閥の孫娘にあたるエステリーゼで、フレンとユーリは彼女の貴重な話し相手らしかった。曰く、体調を崩しがちで滅多に学校に行けないとかが理由、とユーリは聞いたとこがあった。
「ユーリ。ようこそ、です」
「おお。邪魔してるぜ」
「あとでピアノ弾いていってくださいね」
「ん、またあとでな」
「はい。楽しみにしてます」
ふんわり笑うエステリーゼの気配にユーリは自然と口元に笑みが浮かんだ。それをフレンは心配そうに見ながら、今日は体調大丈夫なのですか、とエステリーゼの顔色を伺った。
「絶好調です!」
「へえ。オレが来る度そう言うな」
「そ、それは気のせいです。けしてユーリのピアノ演奏を楽しみで体調を万全にしているわけじゃ・・・!」
「はいはい。まぁ元気な姿が見れただけでいいさ。無理すんなよ」
ひらひらと振られるユーリの手に、エステリーゼは少し頬を膨らませて、ユーリは意地悪です、と呟き、フレンに挨拶をちゃんとしてから部屋を出て行った。毎度このやり取りをするユーリとエステリーゼにフレンはだんだん諦めと呆れを感じていた。
「いつまで経ってもユーリはユーリだね」
「当たり前だろ。お前はお前のまんまじゃねぇか」
それに自分じゃない誰かにいつかなりえるのかよ、というユーリの吐き捨てるような言葉に、フレンは今まで感じていた妙な不安感がなくなって、だけどそれがおかしくてたまらなくて、こみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、もう一度、ユーリがユーリで良かったよ、と柔らかく告げた。