8月
08.さよならを示唆したわたしのしらないひと
なまぬるい風が開け放した窓から窓へと流れてゆくのを肌で感じる。
昼間の街の喧騒が遠く聞こえる中、それを覆い隠すように響くピアノの旋律はいつ聴いても柔らかく、やさしい。
ジュディスは夏の日差しが降り注ぐベランダにブランケットを干してから、薄暗い部屋の中へと足を戻した。ひんやりと冷たいフローリングの床は、本格的な夏の暑さでべたつく素肌に心地良い。ジュディスは素足のままひたひたと歩いて、キッチンまで戻って、昼食の準備を静かに始めた。
基本的にユーリは空調機器を嫌う。使えるものは使ったらいいんじゃないか、という考えもあるにはあるらしかったけれど、金銭的なことになるとどうもそうも言う暇などないらしく、こんなに陽射しが強くて、昼を過ぎる頃になると蒸し暑くなる部屋なのに、けして頼りたがらない。
もともとユーリは平均的な体温がやけに低く、少々のことでは暑さに対して根を上げたりはしなかった。だから晴れている夏の日は、部屋のすべての窓を開け放して過ごす。
ジュディス自身がそのユーリのその習慣のようなものに慣れるのは早く、今ではジュディスも空調を使わなくなっている。
でも相手の体調管理も仕事のひとつなので、さすがに具合の悪い場合は強制的に空調を使うことも多かったけれど。
ピアノの旋律は止まることなく、聞こえる。
アパートの割には間取りが一番広い部屋、そしてリビングルームに置かれたそれは、グランドピアノという代物だった。
防音もしっかりしているという建築構造だということで気軽に弾けるけれど、どうしてグランドピアノなのかとジュディスが訊ねたら、ユーリは大変呆れた顔で「誕生日プレゼントも兼ねて渡された」と答えた。
思わぬ答えだったので、少しだけ笑ってしまったのだけど。
今はそれに指を滑らすユーリは、集中しているのか先ほどからミスひとつなく音を奏でていた。
黒と白の鍵盤の上を踊る指を、ユーリの横に佇むラピードが眺めているのをジュディスは見ながら、透明なグラスを二つ棚から出しリンゴジュースを注ぐ。
それをトレイの上にひとつ置いて、ゆっくりと演奏の邪魔をしないようにユーリへと歩み寄った。
ピアノのすぐ傍まで来るとラピードがジュディスを見上げて、眼が合う。ジュディスがにっこり笑うと、ラピードは尻尾を揺らしてぱたん、と床に音を立てた。そして突然、音がやんだ。
「間違えた」
「あら」
はぁ、と小さなため息を吐いてからユーリはジュディスの方を振り返って、その黒い瞳を瞬かせた。
ジュディスはそれに笑いかけ、リンゴジュースよ、と言ってグラスを持ち上げて、ユーリの左手に触れさせた。
「サンキュ」
「いいえ」
ふわ、と熱気を含んだ風が肌を撫でていくのがわかってジュディスはその風が通る窓を見やる。
開け放したベランダへと続く窓の向こうには蜃気楼が歪んで見えて、その暑さを想像して眼を細めた。
「外は暑いみたい」
「だろうな」
「さっき、どこを間違えたの?」
「7連の最後。飛ぶんだよなー音が」
もう一度小さなため息を吐いたユーリにジュディスは微かに口元に笑みを浮かべた。
ユーリの目の前には楽譜なんてものは存在しない。あるのはユーリの髪と同じような黒く塗ったピアノ。指紋も少なく、黒光りしてユーリとジュディスを映していた。
とん、と一番端の白い鍵盤の上にジュディスが人差し指を乗せると、きん、とした高い音が響く。それにユーリが思いついたように持っていたグラスをジュディスに差し出して返し、両手を滑らすように鍵盤の上に乗せて、その高い音が綺麗にはもる和音を波のように弾いた。
しかし、その和音の何かが気に入らなかったのか、ちょっと違うか、と呟いたユーリを横目に入れたジュディスは小さく笑った。
「音楽は順調?」
「まあまあ、だな」
「楽しそう、ね」
「そうか? ま、別に嫌いじゃないからそう見えるかもな」
「ええ」
そうして残っていたリンゴジュースを飲み干した後、もう一度ユーリは鍵盤の上に手を乗せた。
弾き出した曲を聴きながら、ジュディスはふと思い出したことを口に出した。
「そういえば、この前お中元で贈られてきたあの食べ物、どうしたのかしら」
すると曲の旋律が少しずつ乱れてあやふやになり、ユーリは違う曲を弾きはじめた。
ジュディスは聞き覚えのある曲に変わったことに少し驚きながら、ユーリのそのしなやかな指先を目で追った。
「通りすがりのおっさんにやった」
「・・・通りすがり?」
「そう、通りすがり」
多分、もう会うこともないだろ、と続いた言葉にジュディスは怪訝に眉を寄せた。
見知らぬ人間に声をかけたのか、もしくはかけられたのか分からなかったけれど、ユーリがそうして知らぬ誰かに物を押し付けたりすることはありえないに等しい。
「知り合いだったの?」
「通りすがりって言っただろ?」
「ええ。でも知っている人だったのね」
確信したかのようにはっきりと言うジュディスにユーリは弾いている手をそのままに、視線を窓の方向へと動かした。
ふわ、と長い黒髪が熱を孕んだ風に揺れる。
どことなく物寂しい旋律を耳にしながらジュディスはユーリの視線の先を見た。だけどユーリがみているものをジュディスはけして見ることができなかった。
分かっている。
分かっているけれど、時々ジュディスはユーリが映す世界を見てみたくなるときがある。
付き合いが長くなったのはジュディスがユーリに関わろうとしたからで、きっと離れてゆけばユーリはジュディスのことを忘れた振りするのだろうと思った。
依存しない方法を、知っている。
そうやってユーリは生きていくのだろう。
(ちがう。生きてきた、のほうが正しいかもしれない)
ジュディスはユーリが見つめる先の方をただ眺めながら、奏でられている曲の名前を思い出して、それが彼の答えだと知った。
*ユーリが最後に弾いていた曲は「ショパン Etude op.10 no.3 」
タイトル改変。元は「さよならを示唆した僕のしらないひと」