8月
12.幼い僕達は全てから逃げ切れると思っていた
夏の気だるい熱気に、蝉の鳴き声が近くてうんざりする、と大学に備え付けてある図書館から窓の外を眺めてフレンは思った。
緑がきらきらと揺れて、昼間の陽射しが木漏れ日となって降り注いでいる。
人が歩く歩道には蜃気楼が見えた。空調の効いた室内を出るのに気が引けたけれど、そうも言ってられずにフレンは図書館をゆったりとした足取りで出た。
廊下へと足を踏み出すとまったく違う気温に出迎えられて、眉を顰める。こうした時に、整った顔が台無しだ、と言ったのは同期のアシェットだったか。
フレンは他愛ない話をした彼のことを思い出しながら、レポートの提出日と明日の日程を考える。
足は自然と音楽室へと向かい、今なら休憩時間のはずだとまったく傷のない腕時計を見ながら歩みを進めた。
普段フレンがまったく近づくことのない音楽室の近くまでくると、流れるようなピアノの音が聞こえてきた。
ピアノはフレンの住んでいる家にもあるのでどんなものか想像できるし、どういった音が奏でられるのかも知っている。ただそれを弾くのが養父かエステリーゼかユーリかであるだけで、フレンはまったくあの白黒の鍵盤に触れない。どこかドと呼ばれる音なのかも、分からなかった。
近づくにつれて音が大きくなるのを感じながら、フレンはなるべく足音を立てずにその部屋の扉の前に立った。
扉は半分開いた状態でもう既に中の様子はすぐに見えた。
ひとつのグランドピアノの前に、見慣れた黒髪が揺れている。流れるような音の運びが繰り返される部屋の中にフレンは足を静かに踏み入れて、ユーリと対面になるようにそこで足を止める。
音が広く広がるように普段閉められているそこが開いていて、ピアノの中に組み敷かれた弦はユーリが鍵盤を叩く度に震えて音を出した。
それを眺めながらフレンは空調の効いていない音楽室を見回す。窓は全て開け放されて、夏の風に白いカーテンが無造作に揺れていた。窓の外からは中庭が見え、談笑する学生の姿が見えるのだろう。
この時間なら昼食時だろうし、と流れる音に耳をかたむけようとして、突然それが止まった。
「もう時間かよ、フレン」
「あれ、気づいてたのか」
「あれで分からないのもどうかと思うぜ」
ユーリは座っていた椅子から腰をあげて、ぽん、と鍵盤をひとつだけ叩いた。
フレンはその行動に、それなんの音、と聞くと、ユーリはそっけなく、A、と答えた。
「“アー”?」
「・・・ん、ああ。ラの音」
「ああ、ラね」
そう言われてやっとなんのことか理解する。
そしてユーリに昼ご飯は、と聞くと、まだと返ってきたのでじゃあ食べようと勧めると、ユーリは眠そうな欠伸で答え、それにフレンは少し眼を細めた。
最近眠っていない、という会話をしたことがある。原因をユーリは詳しく話さなかったが、フレンは夢のせいだと思っていた。
ユーリは昔からまったく寝て見る夢を覚えてない人間だったけれど、此処最近の夢はどうやらすべて覚えているらしく、それが彼を蝕んでいることがフレンには手に取るように分かった。
時期は夏。ユーリの視力を奪った季節。
そしてユーリの親が亡くなった季節でもあった。
フレンは歳を重ねるごとに何も話してくれなくなったユーリを歯痒く思う。すべてを話してくれる必要はないけれど、少しでも君の負担が減ればいい、と言ったことがあるがユーリはけして首を縦に振ることはなかった。視力を失ってから、ユーリはどんどん自分から離れてゆくような気がして、怖くて仕方なかった時期もあった。
だから、彼の後見人が養父に代わった時、とても嬉しくて安心した。けれど、結局ユーリは養父の家には住まずに他の家を借りて住んでいる。
だんだんユーリが分からなくなる中、それでもユーリの為になにかできることはないかと模索していた。
でも結局、とフレンは支度をはじめたユーリを見て思った。
ユーリが視力を失って自分はひとりでユーリを失うことに恐れて怯えていて、彼のためだという建前を立て自分が安心したくて傍にいたくて、彼のためだと視力を失ったあの夏の日に繋がるようなものもすべて捨てた。
そしてそれにはけして触れない。触れてはいけない。
でもそれは、ただの逃避でしかなかった。
ユーリのためじゃなく、自分のためでしかなかった。これ以上、傷つかないための、壁を作っていた。
ユーリは確実に今の自分と戦っているというのに、なんて様だろうとフレンは自嘲した。
子どもの頃、ユーリを受け入れない、どうしようもない大人たちが疎ましくて仕方なかったけれど、これでは自分も同じようなものだろうな、と黒光りするピアノの表面をなぞる。
残ってしまった自分の指紋に、苦笑した。
もう、子どものままではいられないらしい。
フレンはようやく、気づいた。
「ユーリ、」
ご飯、どこで食べようか?
もう、あのただ笑いあってた日々には戻れないことを、知った。