8月
02.家出少女は自転車を盗まれる
あー、とリタは声を出した。ほんとうにどうしようもない。
都会の夏の夜空は何も見えない。これが冬だったらすこしは星が見えるのだろうかと思うが、寒いのはごめんだわと誰にでもなく呟いて、リタは飲みかけていたカフェオレのパックを飲み干した。
もう一度、あー、と意味のない唸り声を出して、夜の空を眺める。
そのうちに、表情がだんだん歪んできて、泣きそうに変化してから「なんであたしがっ!」と叫んだ。
誰もいない公園にリタの怒声が響く。通りすがりの人が若気の至り、と呟いたのをリタは知る由もない。
ほんとどうしようもない。
リタは飲み干したカフェオレのパックを備え付けのゴミ籠の燃えるごみに放り投げる。
暑いのもごめんだけど、と独り言をぶつぶつ呟きながらリタは鬱陶しげに肌に張り付いた髪を払った。
家に帰るか帰らないか。
帰っても話をしなければ万事解決、そんなわけにはならない。
同じ家の屋根の下に住んでいるのだ顔はいやでも見るだろう。
だいたい、学校はちゃんと行きたいし、でもあろうことかお金を忘れてきたのだ。感情のまま家を飛び出した時の自分が憎いしバカっぽいと思った。友達、と呼べる人はいるにはいるが、笑顔で家に招き入れそうで怖い。さらに家を飛び出した理由が親子喧嘩で、そしておせっかいにも仲直りさせそうでもっと怖い。リタはそれを考えて途方に暮れていた。どうしようもない。
街の喧騒がだんだん静まりはじめる頃、結局リタは帰ろう、と決意して乗ってきた自転車へと視線を移した。すると自分の自転車に見知らぬ人間が跨って走りはじめようとしていた。
「ちょっ! あんた人の自転車に何乗ってんのよ!!」
ドスをきかせて怒鳴ると、逆効果だったのか、その人間は乗ったまま走り出してしまった。
いくら運動神経が良かろうが自転車に追いつくことは出来ずにリタの罵倒と怒声はむなしく響く。
そのうち自転車の姿が見えなくなってしまい、息が切れて道の真ん中で止まっていたリタの耳に急なブレーキ音と派手に何かが倒れる音が聞こえてリタはまた慌てて走り出した。
からからからと倒れ、むなしく空回る車輪と一匹の犬と、夜と一体化しそうなほどの黒い影が見えてリタは呼吸を荒くしたまま、眉を寄せた。その怪しすぎる黒は乗っていった人間とは姿が一致しないし、犬がリタにはよく分からなかった。
からからから。
回る自転車をとりあえず起こしあげてブレーキがちゃんと機能するか確かめた。ものすごい音だったからもしかしたらどこか凹んでいるかもしれないと全体を見渡したが、幸い目立った凹みは見えないようだった。
犬がふいに動いたのでリタは驚いて犬の動きを追ったが、犬はその黒に寄り添うようにして隣に移動する。
もういいのかラピード、という声に、犬が言葉を理解しているかのように答えた。リタはそのやり取りに更に眉間に皺を寄せた。突然黒がこちらを振り向いて、口を開く。
「あんた、自転車の主?」
「そ、そうだけど」
「ふーん。悪いけど、犯人は逃げちまったからわかんねぇ」
「・・・あんたが取り返してくれたの?」
「いや、ラピードだよ」
そうして隣にいる犬が興味がないように小さくひとつ欠伸をした。
なぜ盗まれたと分かったのだろうか、と怪しんでいると、威勢のいい罵声が聞こえたから、と言われて心が読まれているのかとリタは黒をまじまじと見た。
「時々ああいうのいるから、気をつけたほうがいいぜ」
「わ、分かってるわよ! ちょっと油断して、」
「まあ襲われたのが自転車の方でまだ良かったんじゃねぇの。じゃ、気をつけて帰れよー」
ひらひらと手を振られて夜の闇に消えていくその姿を見つめながらリタは最後に言われた言葉の意味を理解して、暗がりに向かって近所迷惑も考えずに吠えた。
「大きなお世話よ!!」
++++++++++
がちゃ、と家の扉を開けて、入る。
もうこんな時間なのにこの家ってほんっと無用心、と自分のことは棚に上げといてぶつぶつ悪態を吐きながらリビングに続く扉を開けた。
「おー、おかえりリタっちー。お邪魔してますよ」
開けた途端見えたものに対してリタはものすごく嫌な顔をした。
なんで此処にいるの、と低く呟くと、その人間―――レイヴンは切実な声を出して、目の前のご飯を口に運んだ。
「家に米がなかったのよ」
「飢えで死んでしまえ」
「うっわ、ひどっ。リタっちいつからそんなこという子になっちゃったんだろうねー。おっさん悲しい」
「きもい」
リタは手を洗ってから冷蔵庫から飲み物を見つけてコップに注ぐ。
レイヴンの食卓に付き合っていたハリーがリタにご飯はちゃんと食べたか、と聞いてきたがそれにはちゃんと頷いた。適当に済ませたことを言うとレイヴンがあんまり良い顔をしなかったが、レイヴン自身も同じようなものなのであえてなにも言わずにおかずを口に運んだ。
「そういえば、なんかへんな犬と男に会ったわ」
「犬と、男・・・ってリタ、なにもされてないか?」
「あたしがどうにかされるとでも? バカっぽい」
「まあ、何もないなら何よりだ」
「うん、それでさ」
「うん?」
リタは反抗期なのだろうけれど、ハリーにはちゃんと受け答えするようで、レイヴンは良かったと心の中で安堵しながら二人の会話を黙って聞いていた。
それに気づいたのかリタの視線が明らかに怪訝なものになり、別になんでもない、でいったん切られた。
そして思い立ったのか、ハリーに確認するようにもう一度口を開いた。
「ドンは?」
「仕事」
「また?」
「また」
リタは大げさなため息をついてほんと理解できない、と吐き捨ててからハリーにもう寝るわと告げてリビングを出て行った。
ばたん、と若干乱暴に閉められた扉の音の大きさにカロルが起きないといいんだけど、とハリーが心配したように声に出した。
レイヴンはそれに苦笑しながら、久々の米とおかずを味わって黙々と食べた。