8月
04.黒鳥は空を別つ
熱を上げる夏の空を見上げる。
今日も暑くなりそうだな、と思ったフレンはその色素の薄いあおい眼を細めて手で影を作った。
少々、光が目に痛い季節でもあるのでフレンは正直言って、夏が嫌いだ。
これは口にしたことがないけれど、幼馴染の視力を奪ったのもちょうど夏の季節だったので、もう全面的に夏が嫌いだといえるだろう。
気だるい熱気が肌をすべり、背中に汗が落ちてゆく感覚がする。早く大学に行って、図書館で涼もうとだけを考え、早足で道を進んだ。
フレンが通う大学は家からは少々距離がある。
止まる駅は全部含めて十駅、乗換えが一回で駅に着いてからは徒歩。
だけどその距離をけして遠いなどと思ったことはない。すべては幼馴染が心配であるから必然的にこの大学になって、学びたいこともこの大学にあっただけというなんとも合理的な理由だと自分では思っていたので。
フレンは大学の門の前に着くと携帯を取り出して、すばやく目的の番号を引き出して、コールをかけた。5回鳴ってから、向こうと繋がって今どの辺りにいるのかを聞くと、もうすぐ着く、と言われて待ってるとだけ告げてすぐに受話器を下ろすボタンを押した。
どうせ待ってるなんて言うと、「ガキじゃねぇんだからひとりで大丈夫だ」というに決まっている、とフレンは分かっていたのでいつも一方的に切ってしまうのだ。我ながら強引やらおせっかいだな、と思うけれど、これは譲れない。
もう日常の習慣になっていたのだから。
五分も経たずに待っていた姿が見えて、声をかける。
ユーリ、と呼ぶとものすごく呆れたような表情をしたように見えたけれどあえて見なかった振りをした。門前まで来くると、一緒にいたラピードが当たり前のようにフレンの前で止まり、座った。
フレンはラピードにもおはよう、と言うと吠えることはしないものの尻尾が一度だけ、ふっと振られた。それに笑みを零してから、ゆっくりと歩き出す。
ラピードも従うように立ち上がって、くん、とユーリの手を引くようにゆっくりと歩き出した。
「別にもう待ってなくてもいいんだけど」
「何言ってるんだ。今更だろう?」
「だからってなぁ・・・なんていうかガキくさい」
「そんなことユーリが気にするなんて」
「いや、お前がガキくさいんだよ。オレはお前のその好意はありがたく思いますがね」
ぶっきらぼうに吐き出されたユーリの言葉に、フレンは苦笑をもらす。
いつまで経っても素直にはなる気がないらしい。
「だったら甘んじて受けてくれ。嫌になったらちゃんと言うさ」
そんな日は来るのかね、とぼやいたユーリに、フレンは軽くふざけて肘でわき腹をつついた。
とん、とわき腹に触れる前に左に反らされた体はまるでそうされることが分かっていたかのよう。
大学の人間は、はじめてユーリとフレンのじゃれる様なやり取りを見ていると、大概、ユーリが本当に眼が見えてないなんて嘘みたいだ、と言う。それがなんだ、と常々フレンは思ってしまうが、あえて笑顔で受け流す。
そんなフレンの対応にため息をつくのがユーリで、ほんとこいつの過保護ぶりには頭が痛い、と思っていることをフレンは知らない。
玄関口から中に入って今日は何があるのかユーリに聞くと、ソルフェージュと聴音に楽典、といつものようにお馴染みになってきた単語を聞き、分かったと返した。
そのユーリから零される単語の内容や意味をちゃんと把握しているかと聞かれるとそれは否であるが、とりあえず聞いてしまうのは、幼い頃からの癖であるから仕方がなかった。
ユーリとは取る学課も講習も何もかもがフレンには馴染みのないものである。
芸術が理解できない、というわけじゃないだろうと自負してはいるが、専門用語的なことを並べられると知らない人間にとったらただの文字の羅列にしかならない。
法学部のフレンにとってユーリのしていることは未知の世界に近く、だからといって“知らない”で済ましたくはなかったのだ。
「僕は昼過ぎた頃に終わるけど、ユーリは?」
フレンは時計を確認しながら、大人しくユーリの傍に居るラピードをちらりと見る。
ふてぶてしいほどどっしりとした頼りがいのあるラピードは、ユーリを仰ぎ見ながらふん、と鼻を鳴らした。
「3時過ぎ、かな。でもまぁ、長くなると思う」
「そっか」
フレンはとりあえず、と焦点の合わないユーリの両目を真っ直ぐ見つめ、笑いかける。
「また連絡入れるから」
「ったく・・・。わかったよ」
何かを諦めるかのように苦笑したユーリがラピードを呼びかける。
ラピードは分かっていたかのようにゆっくりと歩き出して、ユーリを導くように歩くけれど、その視線が不意に窓の外に向かったのでフレンも無意識にそれを追った。
夏の空を区切るように並ぶ窓の向こうで烏が一羽、ユーリとフレンの間をわかつように飛び去るのが見えた。大きな羽で風を切る音が聞こえて、思わず呆けてそれを見送る。
眩しすぎるほど近くあおい空の下、見えなくなるまでそれを見ていたフレンは何故か急に不安を覚えた。だけどそれを殺すようにフレンは歩き出す。
大丈夫、気のせいだと言い聞かす。
暑い暑い夏の日に、いつかと同じような寒気がしたのは、気のせいだと。
そう、思い込んだ。