宵待奇譚
一
聞いたか。聞いたか。
聞いたぞ。聞いたぞ。
なにがし寺に、男が流れ着いたとか。
男が住みついたとか。
やんごとなき方の覚えもめでたいあの寺にか。
そうじゃそうじゃ、あの大きな寺にじゃ。
なんでも男は、どこの誰かもわからんとか。
男は、何も覚えとらんとか。
なんでも男は、怪しき力を持っているそうな。
はて、それはなんと。
それは…。
ある大雨の夜、寺の前に、男が倒れていた。見つけた寺の下女が、雨に打たれるその姿をあわれに思い、他の下人にも手伝わせて寺の中にかつぎ込んだ。三日三晩眠り続けて、男はようやく目を覚ました。目覚めたとき、男は何も覚えておらず、自らの名すらわからなかった。男はそれから寺で下働きをしながら暮らすようになった。しばらくすると、男には少しだけ不思議な力があると周囲がささやくようになった。
着ていた着物の雷文から、男は、雷蔵と呼ばれた。
広い境内の裏手、鬱蒼と木々の茂った庭を、男が丁寧に掃き清めていた。空は暗く雲が立ち込めていて、いまにも降り出しそうな気配である。空を見上げて、男は降り出しそうだなぁと小さくひとり言をつぶやく。
男の名は、雷蔵と言った。少なくとも、ここではそう呼ばれていた。
男には少し前までの記憶がない。自分が何者なのかも、どこで何をしていたのかも覚えていない。大雨の中、寺の前で倒れていたのを、寺の下人に助けられた。それ以来、そのままこの寺でやっかいになっている。寺はどこぞの身分高い人の寄進を受けている大層大きなものだったから、下人が一人二人増えたところで誰も大して気にはしていないようだった。寺の別当に至っては、こうして雷蔵が住みついていることすら気づいていないだろう。
おかげで雷蔵は、身一つで倒れていたにも関わらずこうして無事に衣食住を手に入れられた。まあこれは、あっさりと雷蔵を受け入れた寺の下人たちの人の良さによるところも大きいだろうが。
ありがたいなあ、とひとりごちて、雷蔵は再び庭掃除に戻る。そこにぱたぱたと足音を立てて、小さな切り下げ髪の少女が駆けてきた。姿を認めて、雷蔵は少女に笑いかける。近くの村に住む子どもだった。母親に手を引かれ、参拝に来ている姿を幾度か見かけたことがある。
「どうしたの、ひとりで」
「あのね、お願いがあるの」
真剣な表情で言う少女に、雷蔵はしゃがみこんで目線を合わせると、お願い?と尋ねる。
「明日、姉さまがお嫁に行くの。真っ白なおべべを着て、お隣の村に行くの」
「そうなの?おめでとう」
祝いの言葉を言う雷蔵に、でも、と少女は泣きだしそうな声で言う。
「お母さまが、明日は雨かもしれないって。雨の日の花嫁はよくないって、姉さまが悲しそうな顔をするの。だから、明日はお天気にしてくださいって、お願いしてください」
それを聞いて、雷蔵はわかったと力強く頷く。
「お願いしておくね、明日は晴れますようにって」
それを聞くと、少女はぱあっと明るい顔になり、ありがとうと弾んだ声で言って、再びぱたぱたと帰っていった。その後ろ姿を見送って、雷蔵は空を見上げる。さっきまでどんよりと垂れこめていた雲が割れて、青空が薄く見え始めた。
「すごいな、お前が願えばお天道様が出るのか」
不意に声が聞こえて、雷蔵は振り返る。生垣の向こうに旅装束の見知らぬ男が立っていた。片手で軽く持ち上げられた笠の下に、からかうような笑みが覗く。
「そんなことはないけれど」
「けれど、さっきの子どもはお前に頼みさえすれば明日は晴れると心の底から信じている様子だったが?」
言われて雷蔵は、小さくため息をつく。
「ただの噂だよ。どうしたものか、僕が願えば晴れると信じこんでいる人が大勢いるんだ」
「ほう。しかし、現に今、空は晴れようとしているが」
「ただの偶然だよ」
大げさに関心してみせる男の目線の先、雲の切れ目を見上げながら、雷蔵は淡々と言う。
「最初も偶然だった。明日は鷹狩りに行くと言った人がいたから、晴れるといいですね、お願いしておきましょうと言ったんだ。次の日は驚くほどの快晴だった。たまたまそんなことが続いただけなんだ。そうしたらいつのまにか、みんな僕に雨雲を払う力があると噂するようになった」
「なるほど。それで皆ああしてお前に願掛けをしにくるのか」
「みんな冗談半分だけれどね。さっきの女の子みたいな子どもはともかく、大の大人が本気でそんな噂を信じてるわけじゃないさ。ただの気やすめだろう」
「ふうん。それでお前はそのたびに、ああして他人のために祈ってやるのか」
「それで誰かの気持ちが落ち着くならば」
「人のいい奴だな。そんなこと、わざわざ願ってやらなくてもいいのに」
小馬鹿にしたような口調で男が言うので、雷蔵は少し驚いた。初めて会った人間とは思えないほど尊大な口調で、男はずけずけと言い放つ。
「人間なんて勝手なものだ。なんでもかんでも自分の思い通りにしようとして、しまいには人知を越えた力まで自分の意のままにしようとする。身の程知らずにもほどがあるな」
男は一息にそこまで言った。そうしてあっけにとられている雷蔵の表情に気が付き、おかしげにくくっと笑う。
「いや、驚かせるつもりはなかったんだ。つい話し過ぎてしまった」
「別にかまわないけれど。それより君はここで何をしてるの?」
「見ての通り、旅の途中だ。知り合いを探していてね」
「見つからないの?」
「まあ、そんなようなものだ」
男はそう言って言葉を濁すと、それよりと雷蔵に向き直る。
「このところずっと野宿ばかりで、疲れてるんだ。かなりの長旅だったし、そろそろ屋根のあるところで休みたい。しばしの宿をお貸し願えないか」
どうしたものかと雷蔵は考え込む。この寺のことだ。男の一人や二人、泊めたところで何の問題もなさそうに思えるが、何せ自分も居候の身である。勝手に決めていいものかどうか。
言葉に詰まる雷蔵を見て、都合が悪いなら構わないと言い残し、男はあっさりと踵を返して去ろうとする。慌てて雷蔵はその後ろ姿に声をかけた。
「待って、たぶん、大丈夫だと思う」
男は振り返って、構わないのかと確認する。
「うん。どうぞ、入って」
そう言って雷蔵は木戸を開け、男を招き入れた。男が木戸をくぐろうとするとき、ふと気になって雷蔵は尋ねる。
「そういえば、君の名前は?」
尋ねられた男は、なぜか少し考えるようなそぶりを見せて、それから答えた。
「三郎だ」