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宵待奇譚

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 このあたり一帯に一滴の雨も降らなくなってから、もう何日がたったのか見当もつかない。太陽は硝子を焼くかのようにじりじりと照りつけ、地面を、作物を焼いた。晴れの日はもうごめんだよ、と冗談交じりに雷蔵に文句を言っていた人々は、やがて事の次第が深刻さを増すごとにいらだちを隠さなくなり、今となってはもう何も言わなくなった。人は本当に絶望すると怒りの感情すら忘れてしまう。人々に何か言われるたびに、晴れることなど願ってはいないといちいち釈明していた雷蔵だったが、もうここ数日は誰も何も言ってこない。静かなものである。ただ乾いた土を巻き上げる風の音だけが吹き抜ける。
「どうした、絶望したか」
 不意に三郎が現れた。去ったときと同じように、薄暮れの庭の戸口に立っていた。あの日と違うのは、風の乾きだけ。
「絶望?」
「雨は降らない。苛立った人間はお前のせいにする。どうだ、もうそろそろ疲れてきたころだろう」
「僕のせいにされたのは最初だけさ。みんなすぐにその不毛さに気づいた。今はもうみんな何も言ってこない」
「ふうん」
 三郎は興味深いものでも見るかのような顔つきでそう言うと、お前は雨が降らなくても構わないのかと言った。
「どうかな。降ったほうがいいんじゃないかな」
「まるで他人事のような物言いだな」
「そんなことはないけど。みんなこのまま雨が降らなければ困ると言っている。なら降ったほうがいいと思う。けど、実感がないんだ」
 すうっと、照りつける太陽に掌をかざして、雷蔵は目を細める。
「僕はこの手で何かを育ててきたわけじゃない。第一記憶もないから、作物が育たなければその土地の人間がどうなるかなんてことも、想像するだけだ」
 おかしいかなあと言う雷蔵に、三郎はいいんじゃないかとそっけない返事をする。
「お前がそう思うのは、もしかしたら記憶の欠落のせいじゃなくて、お前自身の性質のせいかもしれないよ」
「性質?」
「要するに、お前が人でなしってことだ」
 言われて雷蔵は、怒るそぶりも見せず考え込む。
「人でなしかあ」
「違うのか」
「わからない。みんなが困るのを見るのは楽しくないから、雨が降ればいいとは思うけれど」
「そうか。雨か」
 そこで三郎は、どうしたものかなとつぶやく。そうして初めてそのことに思い至ったっとでも言うかのように、おおげさに、ああ、と感嘆詞を漏らした。
「鐘のせいじゃないのか」
「鐘?」
 唐突に出てきた単語に、雷蔵は不意を突かれた顔になる。
「この寺の鐘が鳴るところを、私は見たことがない」
 境内の奥、釣鐘堂のほうを仰ぎ見ながら、三郎は言う。
「お前はあるか」
「…ない」
 この寺には、それは立派な釣鐘堂があった。いつからそこにあるのか見当もつかないほど年季が入った、たいそうなものである。しかしなぜかその周囲には異様なほど厳重に戸板が打ちつけられて封印されており、誰かがそれを鳴らすところを雷蔵は一度も見たことがない。それどころか、そもそもその釣鐘堂の中に本当に鐘があるのかどうかすら知らなかった。
「鳴るべき鐘が鳴らされない。あるべきものがあるべきところに無いのは、道理に反する。道理に反すれば、どこかに歪が生じる。だから雨も降らない。鐘を元に戻して、道理を正してやれば、案外すぐにお天道様も機嫌を直すんじゃないか」
「またそうやって口から出まかせばかり」
「いや、旅人の知恵袋は聞いておくものだぞ。第一、前の予言だって当たっただろう」
「予言」
 言われて初めて、雷蔵はそのことを思い出す。思い返せば、日照りがはじまったのは三郎があのあてずっぽうのような予言を口にした日だった。
「どうして三郎は、このことがわかったの」
「ただのカンだよ。旅をしていれば自然と空を読むことには通じる」
 そう言うと、三郎はさて、とつぶやいて再び戸口から外に出ようとする。
「また出かけるの」
「ああ。今度はすぐ戻る」
 いったいどこへ…と言いかけた雷蔵の言葉を遮って、お客さんのようだぞと三郎が廊下を指さす。その指の先をたどって、再び雷蔵が振り返ったときには、もう三郎の姿は消えていた。
 三郎が言っていたお客さんというのは、寺の女だった。ちょっと雑務を手伝ってほしいのだけれど、と二人連れ立ってやってきた女たちは、狐につままれたような顔をしている雷蔵を不思議そうな顔で見やる。
「どうかしたのですか」
「あ、いや…」
 なんでもない、と言いかけて、ふと雷蔵は違う問いかけを発してみる。
「この寺の、鐘のことをご存じですか」
「鐘?」
「釣鐘堂にしまいこまれている、あの鐘のこと?それがどうかなさった?」
「いえ、先ほど妙な話を聞いたので。鐘を再建すれば、雨が降るとかどうとか」
 それを聞いて、女たちはふと黙り込む。そうして突然ひそひそと声を潜めて、けれど口々に競うように語りだす。
「そう言えば、聞いたことがございます。鐘の話」
「釣鐘堂の鐘の話」
「昔ある女が、誓いを交わした男に裏切られたんだとか」
「嫉妬に狂った女は、白蛇に姿を変えて、どこまでも男を追いかけた。恐ろしくなった男はこの寺に逃げ込んだ。住職に頼み込み、降ろした鐘の中に姿を隠した」
「けれど」
「けれども」
「そんなことは女の前には何の意味も成さなかった」
「隠れたって無駄」
「蛇に化けた女は鐘ごと男を焼き殺した」
「嫉妬の炎で焼き殺した」
「それからこの寺の鐘は鳴らなくなった」
「恨みと一緒に永遠に封じられた」
「別当どのは絶対に鐘を再建しようとしない」
「理由を聞いても教えては下さらない」
「でもきっとこれが理由ね」
「みんなわかっているわ」
「恐ろしい恨みがあの鐘には籠っているから」
「触れるのが怖いのよ」
 寺の女にしては紅すぎる唇が、ちろちろと蠢いて恐ろしい物語を吐き出す。一通り噂話を終えて満足したのか、二つの唇は同時にひゅうと小さな息を吐くと、今度はゆっくりと話し始める。
「焼き殺された男の恨みがこの土地を焼いているとしたら、腑に落ちます」
「焼き殺した女の恨みがこの土地を焼いているとしても、腑に落ちます」
「恨みの炎は消えぬが道理」
「放っておいたらいつまでも消えぬ」
「ならば鐘を再び掲げて供養をすれば、恨みも消えるかも知れぬ」
「恨みが消えれば、雨も降るかもしれぬ」
「きっとそうね」
「そうに違いない」
 地獄の民が差し出された救いの糸にすがりつくかのように、二人の女は根拠のない希望をぎらぎらとした目で語る。理由など本当はどうでもいいのだ。救われればそれでいい。
 二人の女は、もはや雷蔵のことなど目に入っていない様子で鐘の話を繰り返す。

 そうして、静かに噂は広まった。
 絶望した人々の間に、新たな希望の種が広まるのは恐ろしく速かった。
「鐘を再び奉納すれば、雨が降る」
 もはや人々にとって噂は噂ではなく事実であった。なぜ寺の鐘の供養をせぬかと、人々は声高に叫ぶ。無視できなくなった別当は、渋りながらも一つの御触れを下した。
「鐘を再掲せよ」

作品名:宵待奇譚 作家名:おでん