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宵待奇譚

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 ふうっ、と生ぬるい風が吹いた。
 白拍子の手が静かに上がり、白い袖が風にふくらむ。
 その様子をのんびりと眺めながら、三郎が唐突に口を開いた。
「怨念の籠った鐘…か」
「三郎?」
「お前も聞いたのだろう、あの鐘の伝説」
「うん、まあ」
「誓いを交わした男に裏切られた女が、嫉妬のあまり蛇に変化し、鐘の中に逃げ込んだ男を鐘ごと焼き殺した。昔からこの辺りに住んでいる人間なら誰もが知っている」
「みたいだね」
「その伝説がいつわりだったら?」
 え、と聞き返す雷蔵の前で、三郎が楽しそうに語り始めた。
「昔々、あるところに男がいた」
 語る三郎の目線の先で、くるくると、風のように白拍子は舞う。
「男は妖怪と恋に落ちた」
 目の前で繰り広げられる余興に目を細めながら、三郎は言う。
「だが周囲の誰もがそれを許さなかった。異形と通じる人間は閉じられた村の中では脅威だった。人々は男を鐘の中に閉じ込め、鐘ごと焼き殺した。妖怪の目の前でね」
 三郎が何の話をしているのか理解できず、雷蔵は混乱する。その反応を楽しんでいるかのように、三郎は笑いながら続けた。
「妖怪は炎の中に飛び込んだ。けれど死とは無縁のその存在が男と共に消えることを許さなかった。炎の外で妖怪は願った。共に死ぬことができぬならば、共に永遠の咎を背負おうと。炎の中で男は願った。共に生きることができぬならば、共に死なぬ存在になろうと」
 見つめる二人の目の前で、めまぐるしく舞の調子は変化し、激しさを増す。流れるようだった動きが次第に何かと戦っているような雄々しいものになる。たあんとその足が一歩踏み込んだとき、白拍子は女ではなくなっていた。
 先ほどまでは確かに女の姿をしていたはずなのに、今の白拍子の姿はどうみても若い公達のそれであった。その姿のまま、その男は舞を続ける。呆然とする雷蔵の隣で、三郎は驚いた素振りも見せず話を再開した。
「そうして二人の魂は、炎の中でほんの少し混ざり合って、融けた。男の意識は鐘に刻みこまれ、妖怪は追われるがままひっそりとその場を後にした。人々は鐘に幾重にも封印を施し、寺の隅に放り出して、そうしてすべてを忘れ去った。元々の男の名前も、妖怪の名前も、もう今は誰も覚えていない。すべては遠い昔の出来事だ」
 ひらりと一歩、白拍子が鐘に近づいた。鐘に張り付けられた符が一枚、はらりと落ちた。
「鐘の伝説など、すべては人々が都合のいいように仕立てた張りぼてだ。己がしでかした罪を、恐ろしい行いを、すべて化生のせいにしようとする人間の浅はかな知恵。けれどそれもここで破たんする」
 淡々と続ける三郎の声を背景に、ひらりひらりと白拍子が舞う。舞いながら、幾重にも封じられた鐘へと近づいていく。蝶のようにその封印に触れるたび、はらはらとそれは崩れ落ちて意味をなさないものに変わっていく。
 すべての封印が崩れ落ちたと同時に、突然鐘が燃え上がった。驚きもせず、白拍子は激しく舞い続ける。ごおごおと音を立てて、鐘は燃える。やがて炎の中から一つの影が現れる。その影は一歩一歩外へと歩き出し、やがて人の形を成す。
 ぴたり、と白拍子の動きが止まった。炎をまとった人影に、ゆっくりと手を伸ばす。手が触れた瞬間、急激に炎が消え、男の姿が現れる。その姿を認めて、白拍子は初めて、笑みを浮かべた。そのとき初めて、雷蔵は白拍子の顔を見た気がした。能面のようだったその顔に、表情が生まれる。
「やっと、会えた」
 男はその手を掴んで笑う。
「やっと、会えた」
 瞬き一つできずにその様子を見つめる雷蔵に、三郎は会心の笑みを浮かべて言う。
「いかがかな、私の出し物は。妖怪が助けようとした人間の魂は、炎に焼かれるうちに妖怪の魂と混ざり合い、鬼となった。陳腐な恋愛劇。渾身の出来栄えだろう」
「三郎、お前は」
 何も分からず立ちつくす雷蔵の目の前で、すべてを理解している顔で三郎が笑った。

作品名:宵待奇譚 作家名:おでん