宵待奇譚
六
時は少し遡る。
暗い森の中で、鴉が一声甲高く鳴いた。獣道をがさがさと旅装束の男が歩いてきて、ぴたりと止まった。
「出て来い」
その声に応じるように、暗がりで茫と明かりがともる。いくつもの鬼火に囲まれるようにして、一匹の蛇がするすると大木から降りてきて、身なりの良い一人の男に姿を変えた。
「誰だ」
「そんなことはどうでもいい。雷蔵を返せ」
「雷蔵?」
何のことかわからない、といった様子で、男は片眉を上げる。その返事を聞いて、旅装束の男はものすごい勢いで男に掴みかかった。
「とぼけるな!雷蔵の気が消えたとき、異形の気配がした。辿ってみれば、ここに着いた。お前が関係しているのはわかっているんだ」
「知らないな」
ぶわりと風が吹いて、二人の距離が再び離れた。ふよふよと動く鬼火と戯れながら、男は旅装束の男をちらりと見る。
「ああ、なるほど。雷蔵というのはお前の片割れなのか」
男の指先からふわりと鬼火が出て、旅装束の男のほうに飛んだ。
「片割れを失くして、お前は今自分の力を満足に操ることもできない、ということか」
「うるさい。黙れ」
目の前を飛ぶ鬼火をぐしゃりと手でつぶして、旅装束の男は相手を睨みつけた。
「雷蔵を封じたのはお前だろう」
「だから知らないと言っているだろう。俺とは関係ない」
「嘘をつけ。雷蔵の力が封じられた時、お前の気が感じられたのは間違いないんだ。鐘の音がして…」
「鐘?」
我関せず、といった調子で聞いていた男が、不意に旅装束の男のほうを見た。
「今、鐘の音がしたと言ったか」
「言った」
「先ほどの言葉を取り下げる。どうやら俺も関係しているようだ」
「何を今更」
「ただし、お前の片割れを封印したのは俺じゃない。おそらく知恵のついた人間の仕業だろう」
「どういうことだ」
男はため息をついて、唇を湿した。
「…昔、一人の人間が鐘の中で焼き殺された。俺はそいつを助けようとして気を遣った。けれど助けられなかった。鐘には人間一人分の魂と、俺の気が刻み込まれた。妖の一人くらい、楽に封じ込められるくらいの力はあるだろう。おそらくそれを使って、お前の片割れは封じられた」
「お前、人間を助けようとしたのか」
「そんなことは今どうでもいいだろう。お前、片割れの封印を解きたいのか」
突然真剣な声で尋ねる男を、旅装束の男はいぶかしげに見る。その表情を見て、男はぽつりと言う。
「俺はあの鐘に刻まれた人間の魂を解放したい」
「お前の力があればすぐにできるんじゃないのか」
「あの鐘に近付くことさえできれば封印を解くことができる。けれど、俺は今あの寺に近付くことすらできない」
そこまで言って、男は旅装束の男に向き合った。
「契約をしないか」
「契約?」
「お前は俺があの鐘に近付く手引きをする。俺はあの鐘の封印を解く。そうすればあの鐘に刻まれた人間の魂も、鐘が封じているお前の片割れの力も戻るだろう」
しばらく考えて、旅装束の男は口を開いた。
「助けられるのも、助けるのも私は嫌いだ。だが、契約ならかまわない」
「なら、成立だな」
男は唇の端を釣り上げて笑った。
「俺の名は兵助。お前の名は」
「三郎だ」
生ぬるい風が吹いて、木々を揺らした。