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宵待奇譚

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 座敷の床に四角く光がさす。それは時とともにゆっくりゆっくり畳の上を動いていく。締め切られた座敷の天井近く、明かりとりの窓から差し込む唯一の光。その四角い光を、子どもは一日中追いかける。光が移動するごとに、ころころと畳の上を転がって、ただひたすらその光をじっと眺める。
「よく飽きないな、雷蔵」
「だって、面白いよ。三郎。きらきらしてる」
 子どもは知っていた。四角い光が差し込むところが晴れ。そうじゃないところが曇り。部屋の中は晴れと曇りのどちらかだ。光の中に座れば晴れ。光の外に出れば曇り。閉じられた小さな部屋の中で、子どもはただ一人の主であった。
 座敷の中央に置かれた水盆を覗き込みながら、子どもは話す。
「ねえ三郎、僕は晴れと曇りは知ってるけど、雨は知らないよ」
「私も知らないさ。だって、この部屋に雨は降らない」
「変だよねえ。お話にはたくさん雨が出てくるのに、一度も降らないなんて」
「雷蔵は雨を見てみたいの」
「見てみたいよ。どんなものか触ってみたい」
「雨というのは、ちいさい水がたくさん落ちてくることらしい」
 ぴちゃん、と子どもの手が水盆に触れた。指先から、ぽたりぽたりと水滴が落ちて、水面に波紋をつくる。
「たくさんじゃないね」
「たくさんじゃないな」
「雨、どんなのかなあ」
「どんなのだろうなあ」
 閉じた部屋の中で、水盆を見つめながら、子どもは一人、考える。

 子どもはずっと一人だった。朝夕、口も利かぬ下女が食事を運びこんでくる以外、誰とも会ったことはなかった。小奇麗な座敷の中、子どもは一日中四角い光を追いかけ、水盆を見つめて過ごした。別に寂しくはなかった。その部屋にはすべてがあったからである。雨以外は。
 ある日、突然その部屋に唐突な変化が訪れた。食事の時間でもないのに、がらりと重い音を立てて戸が開いた。
「…こんなところに隠れていたのね」
 子どもは四角い光の中、顔を上げる。子どもの世界に侵入してきたのは、美しいけれど鬼のような顔をした女であった。
「誰?」
「お前のことを憎んでいる女よ」
 女はするすると子どもに近寄ると、その顔をじっと覗き込む。
「見れば見るほどあの女に似ていて憎らしい。あの、女狐」
 そうして、静かに子どもの喉元に手を伸ばす。
「あの女狐は、私からあの人を奪って行った。あの人は私のすべてだったのに。すべてをかっさらっておきながら、あっさりどこかに逃げたのよ。すべてを置いて。お前という起き土産まで残して」
 女の手に、次第に力がこもる。
「私は殺せと言ったのよ。あの女が置いて行ったお前の姿を見た瞬間に。でも、あの人は許してくれなかった。あっと言う間に私の目の前からお前を隠してしまった。けれど、もう見つけたわ。屋敷の奥にこんな部屋を作っていたなんてね」
 きりきりと、女の手が子どもの喉を絞める。どこか遠くの方で、ばたばたと何人もの人間が慌ただしく走る足音と、奥さま、と呼ぶ声が小さく聞こえる。
「隠しても無駄よ。私が壊してやる。あの女が残したものなど、全部」
 床に抑えつけられ、女の顔を見上げながら、子どもは考える。
「雷蔵、この女は誰だろう」
「さあ?僕も知らない」
「私のことを憎んでいるらしいぞ」
「僕のことでしょう?」
「どちらでも同じだろう。だってひとりなんだから」
「それもそうだ」
 子どもは笑う。唇の端に浮かんだ笑みを見て、女は目を見開く。
「なぜ笑う。なぜ笑うの」
 その瞳から、ぽたりぽたりと涙が溢れて落ちる。
「その笑い方。あの女狐にそっくり。私がお前を消しても、あの人の心は戻ってこないと、嘲笑っているかのよう」
 とめどなく頬に落ちてくる女の涙を皮膚の上で感じながら、子どもは考える。
「三郎、ちいさい水がたくさん落ちてくるよ」
「落ちてくるな」
「これが雨かな」
「そうかもしれない」
「でもほら、光もちゃんと見えるよ。雨なのに、晴れが見えるよ」
 四角い光が、喉を絞められる子どもを照らす。その喉がくくっと小さく音を立てて、ふうっと小さな息が抜ける。
 さいごの瞬間、子どもは考える。
 そうか、雨と晴れは、一緒に来るのか。

作品名:宵待奇譚 作家名:おでん