デジキャラット・シンフォニー 4
この作品は杉本侍従長が学生時代に夢中になった作品である。そのため語りにむりやり杉本侍従長が割り込んできた。当然ぴよこも一緒だった。
「飛ぶ教室」は地理の授業に実地検査をすると言って世界中あちこちを飛行機が飛び、最後に天国に迷い込む物語である。杉本侍従長はペテロになりきって演じていた。
いよいよ平田道明の「私が子供だったころ」のお話が始まった。
道明は北九州門司で生まれ、下関で幼少時代を過ごし、京都で成人した。その後大阪や名古屋で教授を歴任し、最後には東京大学教授になる。
昭和初期の下関でお好み焼きを「洋食」といった。当時はソースさえかければ何でも洋食とみなされた時代であった。当時の門司や下関では外国航路の船や捕鯨基地として賑わい、バナナの叩き売りの声が町にあふれていた。下関条約の締結に使われた「春帆楼」は明治時代から存在したが、ふく料理が下関の名物となったのはもっと後の時代になってからのことだった。道明は春帆楼での宴会は子供には退屈だったと記してある。
道明の「洋食」も時代と共に変遷した。終戦直後にはキャベツ以外何も入っていなかったが世の中が発展するにつれて具が増えていき、まず紅しょうがが入り、次いで天かすが加わって、豚肉が加わり、アオノリやマヨネーズ、かつお節が使われるようになったのはごく最近のことだと記してある。最後に道明は捕鯨の重要性について説き、いくつかのクジラ肉の料理法と捕鯨の方法について記した後に「私の存命中に商業捕鯨が再開されることを願う」と記して終わっている。
「でも、平田先生の願いはかなわなかった」
「平田先生は飲んだくれていることが多かったにょ」
「あんな固い肉のどこがうまいのかにゅ?」
「15年前までは庶民の肉と言えばクジラだった。あのころの日本はクジラを世界で一番とっていたんだ。給食にも出たくらいだ。そのころは牛肉やビフテキなどなくてね・・・」
「そういえばお父様もほとんど牛肉は召し上がらなかったですわ」
「私が久弥を誘った時にも焼肉とかはいやがっていた。平田先生はよく飲んだが、久弥は全く酒はだめだったからね。喫茶店しかなかったよ」
10.黄色いリボン
さて、三菱重工横浜製作所では一隻の小型船が完成した。
でじこの友人、みけのための釣り船にしてはいささか大きい船である。
作品名:デジキャラット・シンフォニー 4 作家名:細川智仁