デジキャラット・シンフォニー 4
空爆が一段落したら韓国軍は下関と門司から上陸して日本に侵攻しようと上陸作戦を開始したのである。しかしこれが韓国軍にとって誤算となってしまった。門司は道明の出生地である。そのため道明を慕う地元住民も多かった。彼らは道明の写真をプラカードに掲げながらデモ行進を行ったのである。デモ隊は数万人に膨れ上がり韓国軍と衝突した。
事情を知った韓国軍は道明の邸宅探しを始めた。だが生まれてまもなく門司を離れた道明が門司に残した足跡はほとんどなかった。それでも道明を慕う人々によって生家が記念館になろうとしたが、当の道明はほとんど故郷に貢献していないのに記念館とはおこがましいと平田の名を冠することを許さなかったため生家は「門司切手博物館」として道明のコレクションしていた切手を展示する施設となった。すでに生家も平田家の手を離れていたのが幸いして道明は寄贈者の一人として名を刻むにとどまった。
かつて道明がでじこを連れて門司へ来た時、この切手博物館を訪れたことがあった。
そこには道明の写真の隣に大きく引き伸ばされた瀟洒な蝶ネクタイをした人物の肖像画が目立つように飾られていた。多くのことをでじこに教えてきた道明だったが、この人物についてだけは生前にでじこに語ることはなかった。
でじこがこの人物の名を知るのは道明の没後に久弥が町田の平田邸にでじこたちを招いた時である。同じ肖像画が平田邸にもあったため、でじこは久弥にこの人物の名を尋ねた。この人物の名は「重光 葵」(しげみつ まもる)といった。
戦前、外交官として下関の港に帰国した際、岸壁で遊んでいた道明に声をかけて知り合ったという。重光は後に外務大臣兼副総理にまで上り詰めた人物である。
久弥の話では生前、道明は重光を大変尊敬しておりそのために部屋に肖像画を飾っていたのだが、生前の重光が道明に「あまり私を尊敬していることを公にしないよう」といっていたことから道明も多くを語ることはなかったのである。久弥ですら重光の来歴は王様から聞かされたくらいだった。
「重光は自らの名が蔑まれる事が日本の繁栄につながると考えていた男だった」
王様は久弥にそう語った。
久弥が生まれた時も道明は最初は「葵」と名前をつけるつもりだったが、これを知った重光は道明の家へ出産祝いと称して訪れ、生まれた子を抱き上げて自ら「久弥」と命名した。これでは道明も何もいえなかった。
作品名:デジキャラット・シンフォニー 4 作家名:細川智仁