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金魚

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「ワオ。外、すっごい大雪だよ!」
 驚嘆の叫び声を上げて、小さな金魚は朱い衣を翻し、窓際まで一目散に走っていった。
 短い春のとある日。雨の続いていた陰鬱な天気の中、降雨の隙間を縫うように空色の瞳を開けた金魚は、夏と秋の二つの季節を跨いだ今でも、まだアーサーの家に残留していた。
 彼は二十年ぶりの大雪と言われている真っ白に染まった外界の景色を窓の内側から眺めながら、不満そうにたらたらと文句を垂らしている。
「もー。雪だから外で運動できないしっ。ストレッチとプールばっかりじゃ、肉の質と味を維持できないよー!」
 ぷんすかと憤りを露にして、アルフレッドはソファで寛いで読書をしているアーサーの元までひたひたと走りよった。
 少し前まで、室内の簡易プールに浸っていたお陰で、まだ髪は乾き切っておらず、ぽつぽつと床に水滴を落としている。
「ねぇ、アーサー」
 ページを捲るのに夢中になっていたアーサーは、小さな掌にシャツを引っ張られても、無視して視線すら向けようとしなかった。
 相手をしてもらえずに、ぶーっと頬を膨らませたアルフレッドは、二、三歩下がって助走をつけて、ソファに座っているアーサーの懐に渾身のジャンピングダイブを決行した。
「えいっ」
「おわっ!」
 体当たりを食らって、持っていた本を吹っ飛ばされたアーサーは、膝の上に飛び込んできた金髪の家畜を思わず受け止めてしまったが、悪戯が成功した子供のように満面の笑みを浮かべているアルフレッドを目前にして、当然のごとく怒りを爆発させた。
「なにやってんだ馬鹿! さっさと降りろ、家畜の分際で!」
「だって、何回呼んでもアーサーってば無視するじゃないか」
「だからって主人の膝の上に飛び乗るかよ普通?」
「俺、そういうのあんまり気にしないんだぞ」
「ふざけんな、気にしろ!」
 ぽい、とアルフレッドの小さな身体を払いのけて、アーサーは不機嫌そうに立ち上がった。
「げ、服が濡れちまったじゃねーか。お前、また髪乾かしてねぇだろう」
 忌々しそうに上着を脱ぎ捨てると、アーサーはクローゼットを開けて替えのシャツを羽織った。少し逡巡するようにして、ついでにバスタオルも引きずり出すと、床に転がっているアルフレッドにちょいちょい、と手招きをする。
「そこ、座れ」
「へ?」
「髪、乾かすんだよ。風邪ひかれたら面倒だし」
「…………」
 アルフレッドは、無言のまま自分が弾き飛ばしてしまった本を回収すると、大人しくアーサーの指し示したソファに座った。
「アーサーは、変な人間だ」
 髪の毛を拭いてもらいながら、つくづく解からない、という風に呟かれたアルフレッドの台詞に、アーサーは剣呑と眉間を顰める。
「何だそれ、喧嘩売ってんのか?」
「ちがうよ。でも、主人だったら、家畜の髪なんか拭かないだろ、普通は」
「別に、深い意味はねーよ。もしお前が風邪でもひいて、病院に連れて行かなきゃならなくなったら、そのほうがよっぽど面倒だし、金が掛かると思っただけだ」
 問いかけにしれっと答えて、アーサーはごしゃごしゃと柔らかな金糸の髪を掻き混ぜた。
 くすぐったいよー、とけらけら笑う後頭部を見下ろして、アーサーはふっと碧色の目を細める。
「ったく。手の掛かるヤツだよ、お前は」
 息を解くように吐き出した台詞は、言葉だけ聞くと咎め事のようにしか聞こえないけれど、声音の中には出来の悪い弟に向けるような慈しみが含まれていて、アルフレッドの神経を無駄に騒がせた。
「……アーサーは、本当に、変な人間だ」
 何故、こんなにも胸が締め付けられるのだろう。今まで、人間に優しくされたことが無かったからだろうか。
(俺も、なにか恩返しをしてあげたい)
 毎日餌やおやつをくれて、暖かい寝床を用意してくれて、広いプールや庭など、肉の質を落とさないための運動するスペースも提供してくれて。話し相手にもなってくれるし、時々、こうやって人間みたいに優しくしてくれる。
 そんなアーサーに自分がしてあげられることは、やはり一つしか無かった。
(早く餌になって、食べてもらうこと)
 しかし、アーサーはどういう訳か、いっこうに自分を生餌として使うことは無かった。あんなに可愛がっていたアロワナを、急に知り合いに譲ってしまったのだ。アルフレッド以外の金魚たちも、みんなペットショップに返品してしまった。残っているのは、自分一人だけしかいない。
 食べてくれる肉食動物がいないのでは、自分の存在価値など全く無いではないか。釈然としない不満と焦りを抱えたまま、いつのまにか温かい季節を遣り過ごして冬になってしまった。
 このままでは、どんどん味が落ちて、老いぼれて、生まれてきた意味も解からないまま、屈辱の死へと向かっていくだけだ。
(……待てよ)
 自分を食べてくれる、肉食動物……?
 思考の渦に埋もれていた言葉に、ふっと意識の全てが引き付けられた。先刻はさらりと流してしまったけれど、よくよく考えてみれば、すぐ近くに理想的な答えがあるじゃないか。
 何故、今まで気がつかなかったのだろう。
 自分を食べてくれる、肉食動物。
(そんなの、まさに打って付けの人物が、すぐ傍にいるじゃないか!)
 導かれた結論に酔いしれるように、アルフレッドはすぐさま口を開けた。
「なぁなぁ、アーサー。俺、いま、すっごく良いこと思いついたぞ!」
「ん?」
 髪の毛についていた水滴を拭き取ったアーサーは、濡れたバスタオルを丸めて、今にも立ち上がろうとしていた瞬間だった。その掌を握り締めて捕まえて、アルフレッドは興奮冷めやらぬ熱い口調で続ける。
「俺、早く餌になりたいって思ってたけど、それはもういいやっ」
「え?」
 唐突に告げられた言葉に、アーサーは戸惑った。毎日のように新しい肉食魚を飼ってきてくれ、早く俺を餌にしてくれとせがまれていたのに、どういった心境の変化なのだろう。
 それ以上に、アルフレッドの空色の瞳が、これ以上ないくらいにキラキラと潤み、煌いているのが不気味だった。今度はどんな突拍子もないことを言い出す気なのか。
「俺、アーサーに食べて欲しいんだぞ!」
「…………はぁ?」
 やはり、思った通りだ。
 告げられた言葉の爆弾に、アーサーは呆然と失語する。
「俺は元々は肉食魚用の餌として改良された金魚だけど、解体すれば、人間にも食べてもらえるって話を聞いたことあるぞ!」
 アルフレッドは泉のように湧き出てくる言葉を殺すことなく、次々と声帯に乗せて発言した。喋り続けていないと死んでしまうと言わんばかりに、機関銃のように声を発射しまくる。
「賞味期限は怪しいけど、そんなのは人間が勝手に設定した厳しめの期間だし、俺は超一流の肉だから、ほんの少しくらいなら過ぎたって十分美味しいんだ、絶対に!」
 溢れるような興奮を抑える術を知らず、台詞が上擦って早口になってしまっても、構わずに思惟を訴え続けた。
「だから、アーサー、俺を食べて!」
作品名:金魚 作家名:鈴木イチ