金魚
語尾に音符のマークでも飛んでいそうなほど、軽やかな口調で言い放ったアルフレッドに、アーサーは瞠目を返す事しか出来なかった。
「……断る」
「なんで?」
「なんでって……」
その理由を知っていたら、アルフレッドはとうの昔に「彼女」に食われていただろうし、自分もあれほど大切にしていた「彼女」を手放さなくてすんだだろう。
(そんなの、俺が知りてぇくらいなんだよ!)
心の中で怒鳴りつけて、アーサーはきつく掌を握り締めた。
「とにかく、その案は却下だ。もう二度と口にすんな」
「だから、なんでだよっ」
「うるせーな、どうでも良いだろうそんなこと」
「どうでも良いとか言うなよ!」
ついさっきの上機嫌ぶりからは想像できないような憤怒の表情で、アルフレッドは形の良い眉を吊り上げ、激昂した。
「そりゃあ、アーサーにとっては些細なことだろうけど、金魚の俺にとっては、人生をかけた一大事なんだ! なんで、どうでもいいとか、簡単に言うんだ……」
「アル……?」
悔しくて堪らない、というように唇を噛み締めて俯いてしまったアルフレッドの名を、アーサーは困惑したように呼ぶことしか出来なかった。
「悪かったよ。今のは俺の失言だ。謝る」
「……じゃあ、食べてくれる?」
「それとこれとは、話が別だ」
「やっぱり、ぜんぜん解かってないじゃないか!」
「だから、それとこれとは話が別だって言っただろう!」
また口喧嘩に逆戻りしてしまった。お互いに自分の意見を曲げることをよしとしない性分ゆえに、一度意見が対立すると中々元に戻るきっかけが作れない。掛け違ってしまった歯車のように。
「俺、そんなに不味そうかい?」
「そういう問題じゃねーよ」
「じゃ、アーサーは俺のことが嫌いなの?」
「は?」
「どちらかといえば、好いてくれてるんだろう?」
だから、優しくしてくれるんだろう?
続けざまに捲くし立てて、アルフレッドは己よりも背の高いアーサーに詰め寄っていく。
「好いてくれてるんなら、なんで食べてくれないんだよっ」
「っ……」
本能のまま意見を主張するアルフレッドに、アーサーは吐き気を催すほどの不快感を覚えた。家畜としての本能に刻まれた生存意義は、どうあっても抗えないほど、強いものなのだろうか。
何を言ってもどう諭しても聞き入る耳すら持とうともしないしぶとさで、好きだと言ってくれた自分にも勝って優先順位の不動の一位を明け渡さない。
(この、大馬鹿野郎!)
気に入ってるからこそ、食べられねーんだよ!
心の中で絶叫して、アーサーは決して噛み合うことのない二つの思惟にぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
アルフレッドが家畜としての願いをぶつけてくるように、自分には人間としての当たり前の常識がある。自分にとってはアルフレッドの夢を叶えてやるイコール彼の死に繋がってしまうのだ。身体を裂かれる時の痛み、苦しみ、そして未来を断たれる事の圧倒的な恐怖と虚無感を引き換えにして手に入れる幸福など、人間であるアーサーにはどうあっても理解が出来ないし、するつもりも毛頭無い。
知り得る事が出来ないから、認めてやるわけにもいかなかった。
(もう、手遅れなんだよ)
俺はもう、こいつに情を掛けすぎてしまっている。家畜としてではなく、ペットとしてではなく、一個体の人間のような感覚で接してしまっている。今更、失うことなんて出来る筈がない。
他のやつが食うくらいなら、自分が食ってやろうかと。そんな風に考えたこともあったけれど、そうではないのだ。ある種の独占欲は満たされるかもしれないけれど、もっとも根本的な問題の解決には繋がらない。
あくまでも、生きて、一緒にいて欲しい。
こいつがこの世から消える瞬間が、一日だって一秒だって、長く伸びますように。
アルフレッドと共に過ごす未来を、どうか誰も、奪わないで欲しい。
頼むから、誰も俺の傍から、こいつを奪わないでくれ……。
「何度言っても俺の意志は変わらねぇ! 絶対、お前なんか食って堪るか!」
仕舞いには必殺技の逆ギレを繰り出して、アーサーはドカドカと足音も荒く室内を闊歩していった。これ以上アルフレッドと話していたくはなかった。カッカッと滾るように血が上った頭を冷やしたかったし、これからこいつをどう扱えば良いのか、どう接していけば良いのか、もうそろそろ真剣に考えなくてはいけないと思った。しかしドアノブに手をかけた瞬間、背後からアルフレッドの泣きそうな悲鳴が耳に届く。
「なんだよ、アーサーのばか、ばーか!」
「幼児退行してんじゃねぇよ、うざってーな」
「本当に子供なんだから、いいだろ!」
金魚は、ある一定の時期を境に外見年齢がぴたりと止まる。本来、観賞用の金魚は、最も美しい時期に止まるように改良されているのだけれど、食用の金魚たちも同様に肉が一番柔らかく美味しい時期を少しでも長く維持できるように、少年のままの外見でいる事が多い。
アルフレッドも例外ではなく、見た感じは十歳程度の子供でしかない。
その幼い口元を悔しそうに歪めて、彼は泣きそうな表情のまま、ぽつりと告げた。
「……だって、思い出したんだ」
いつも元気いっぱいでにこにこ笑顔のアルフレッドの、初めて目の当たりにする不安そうな顔につい絆されてしまい、アーサーは退室しようとしていた意思を摘み取られてしまった。
「アル?」
「もし叶うんだったら、好きになった人に食べてもらえたら、嬉しいねって」
それほど遠い記憶ではないのに、今まですっかり忘れていた過去の情景を思い出して、アルフレッドはそっと瞳を伏せた。
「アーサーの家に来る少し前に、ペットショップの隣のプールにいたやつと仲良くなって、そんな話をしてたんだ」
品種改良の末に、漆黒の髪と瞳を持って生まれてきた、とても珍しい種類の金魚の子供だった。あの子はもう、良い人にめぐり合って、美味しく食べてもらえたのだろうか。そう思うと、大きすぎる焦りでいてもたってもいられなくなった。
「だからお願いだよ。俺の願いを叶えてくれよ!」
「却下」
冷酷に言い放って、アーサーはドアノブに掛けていた手を外すと、くるりと振り返って部屋の真ん中に取り残してきたアルフレッドを鋭く睨みつけた。
まだ少し湿っているのか、アルフレッドの美しい金糸の髪はしっとりと首筋に絡み付いている。哀しそうに揺らめいている空色の瞳は、いつもの精彩を欠いて瞼の中にどんよりと雨雲を呼んでいた。
「アル。お前はずっと此処にいればいいんだ」
その命が尽きるまで、ずっと。
俺の傍にいれば良い。
「…………」
言外に放たれたメッセージを受け取って、アルフレッドはパチリと瞳を瞬かせた。
「……もしかして、アーサーは、俺に死んで欲しくないのか?」
小さな金魚から不思議そうに、驚くほど静かに疑問を告げられた瞬間、アーサーの頬がぴくりと痙攣した。
「ねぇ。アーサーは、俺がいなくなったら、さみしいんだ?」
「ばっ、……そんなんじゃ」
ねぇよ! と乱暴に吐き捨てようとして、アーサーは思い留まった。