金魚
3
(まだ帰ってねぇ……)
アルフレッドが姿を消してから、三日目の夜が訪れようとしていた。
大きな喧嘩をした次の日の朝、アーサーが目を覚ますと、既に屋敷の中は蛻の殻になっていたのだ。
朝のランニングかな、とも思ったが、外は確か降雪が酷くて、とても運動が出来る状態では無かった筈だ。
急に胸騒ぎを覚えて、すぐに家中、全ての家具や絨毯などを引っ繰り返す勢いで捜索したし、購入したペットショップにも連絡して、そちらに行っていないか、何処か行きそうなところはあるかと、どんなに些細なネタでも良いから聞きだして、片っ端から潰して来たけれど、アルフレッドはそれらの何処にも立ち寄った形跡はなかった。
「……くそっ。何処に行ったんだよ!」
それからアーサーは、睡眠や食事の時間すら削って、アルフレッドの探索にあたっている。
最悪の想像は絶え間の無い波濤のように押し寄せてきて、アーサーの神経を刻一刻と弱らせていった。
あいつは、ちゃんと食事を摂っているのだろうか。寒い思いをしていないだろうか。
一体、いま、何処に身を潜めているのだろう。
ぎりり、と唇を噛み締める。
(ずっと一緒にいるって、言った癖に……!)
失踪する前夜に告げられた誓いのような言葉を思い出すだけで、心臓が押し潰されそうなほど苦しくなる。
人外で、家畜で、子供という三拍子揃った胡散臭い生き物の、気紛れで発したのだろう台詞を真に受けて、馬鹿みたいに安堵していた自分が口惜しい。
本当に嬉しかったのだ。ずっと傍にいてくれると言われて、子供のように安心してしまった。その純粋な気持ちを裏切られて、最初は屈辱の怒りが爆発したけれど、数時間後には怒気なんてすっかり消えうせていた。
今はただ、無事に帰ってきて欲しい。自分の所に帰ってきて欲しい。
苛々と親指の爪を噛みながら、アーサーは次に起こすべき行動を思案していると、不意に無機質な電子音が鳴り響いた。玄関に来客が来たことを知らせるベルの音だ。思考の中断を余儀なくされたアーサーは、忌々しげにちっ、と舌打ちをした。今は誰にも会う余裕など無いから、無視してしまおうと思ったけれど、ベルは何度も何度も執拗に鳴らされて、まるで居留守を使っていることを見通しているかのようだった。
(んだよ!)
仕方なくインターフォンを覗き込むと、見覚えのある緩やかなウェーブの掛かった金髪が、小さなカメラの中に映りこんでいた。
(フランシス?)
来客者は腐れ縁のフランシスのようだった。
インターフォンの受話器越しに追い返そうかとも思ったが、直接出向いて話し合いをした方が、ケリがつくのは早いだろう。ドカドカと廊下を早足で通り過ぎて、アーサーは乱暴に玄関の扉を開けた。
「んだよ、こんな時間に。俺は今忙しいん……!」
すぐにでも扉を閉めてしまおうとしたけれど、ガツッ、とブーツの爪先が割り込んできて、閉扉を阻まれてしまった。すかさず文句を垂れようとしたが、全身が露わになったフランシスの格好に愕然と言葉を失う。
赤い。
フランシスは見覚えのある上等そうなコートを羽織っていたけれど、内側に覗いているエプロンには、どす黒い血が所々に跳ねていて、壮絶な様子を醸し出していた。その格好でここまで歩いてきたのだろうか。いや、移動は車だったにせよ、人の家に訪ねてくる装いでは無い。普段、身だしなみには人一倍気を付けているフランシスだからこそ、復員者のような凄惨な格好とのギャップに閉口してしまう。
「お前……どうしたんだよ、それ」
震える指先を向けると、彼はああ、と死んだ魚のように濁った紫水晶の瞳を細めた。
「できるだけ早く、新鮮なうちに、届けてやりたいと思って、さ」
こんなにも抑揚のない朴訥とした喋り方をするフランシスを、今までに見た事があっただろうか。それとも、こいつは偽物なのか。どこかで、いつものあの薄ら笑いを浮かべて、自分が動揺する様を見て楽しんでいるに違いない。何て性格の悪い奴なんだ。
そう思い込もうとしたアーサーだったが、フランシスが何か大切そうに小さな白いプラスチックの容器を抱えていることに気付き、ぞくりと臓腑の冷える思いを味わった。
「おい。……その箱、なんなんだよ」
箱の中身を知ってはいけないと、本能が狂ったように警鐘を鳴らしている。しかし、こんな時に限ってよく回る厭味ったらしい口は、重ねて小箱の正体を暴こうと、躍起になって動き続けた。
「なぁ、中には何が入ってんだ。それ、俺にくれるのか?」
「…………アーサー」
可哀想なものを見るような目付きでフランシスに見詰められて、いよいよ焦燥は頂点に達しようとしていた。
駄目だ、こんな所で無駄話をしている場合ではない。早くアルフレッドを探しに行かないといけない。あいつを、あの出来損ないの弟みたいなやつを、あの耳障りな糞煩い減らず口を。
早く、俺の傍らに取り戻さないと……。
「あの子は」
ふらふらと外に出て行こうとしたアーサーの腕を取って、自らの方に引き寄せながら、フランシスは思わせぶりに話し始めた。
「俺が前に遊びに来た時にちらっと話した、料理が得意だって話を、覚えてたみたいでさ」
遠すぎる過去を思い出すように、何処か浮ついた調子で喋る彼の声音には、後悔の色が混ざりこんでいた。料理が得意で肉や魚を捌けるのだと小さな金魚に自慢したこと、そしてその事実が原因となって今回の展開に繋げてしまったことに申し訳なさを感じている。そんな懺悔のような意識を汲み取ることが出来た。
「それで、お前の机を漁って、俺の住所を突き止めて。一人で船や電車に乗って、やってきたんだよ。あんな遠くまで、あんなちびっこい子供が」
二の腕を掴む指先に力が込められた。押し潰された皮膚が痛覚を訴えたが、外部刺激をシャットダウンしているアーサーの脳幹部には、痛みの信号は届かなかった。
「お前に、早く食べて欲しいから、って」
「…………ぐぅっ!」
突然、堪え切れない吐き気が込みあがってきて、アーサーはフランシスに腕を取られたまま、エントランスにしゃがみ込んだ。
片手をついて前かがみになり、胃の中のものを激しくぶちまける。
ここ数日、ろくに食べていなかったので、満足に出せるものはなく、吐瀉物は殆ど胃液のようだった。酸っぱい匂いが充満して、ぴかぴかに磨いてある大理石が汚物塗れになってしまった。
「……んだよ、」
うまく呼吸が出来ない。息を吐いてばかりで、吸い込むことができずに、肺がぺしゃんこに潰れてしまったようだ。苦しい。胸が、心臓が、心が、苦しくて悲鳴を上げている。
「なんなんだよ、それ……!」
掠れ声のまま怒鳴りつけて、アーサーは冷たく硬い石の床を殴り付けた。
寒くもないのに、身体中の震えが止まらない。螺子が一本落っこちて、壊れて動きのいびつになった人形のように、アーサーは両肩をガクガクと震わせた。
「あの子は」
哀れむように発されたフランシスの声は、止まない同情に満ちていた。
「お前のこと、兄貴が出来たみたいだったって、言ってたよ」
兄という単語に、ビクリと反応する。