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ゴールデンレトリーバー

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もぐもぐと咀嚼する七代の口の端を壇が指で拭ってやると、七代は嫌そうな顔をした。

「…………お前、宿題終わったの?」

訊ねながら七代は上に乗っていた一粒の苺をぶすりと突き刺している。

「はァ?宿題?」
「はァ?じゃないだろ」
「あったか?宿題なんて」
「そこからなのか」

心底呆れた様子の七代は、バッグの中からノートと問題集を取り出して壇の方へ放った。

「まさか宿題の存在すら知らんかったってのはさすがに予想外だったけどな…………
 どうせやってないだろうと思って持って来てやったから、写すなら写せば。
 写したのがばれるとかばれないとかは、俺の知った事じゃないし」

壇はそれらを手に取って、ぱらぱらと頁を繰ってみる。何処を見ても大きさの揃った七代の字は、遠くから見ると活字のようだ。宝方蒐ほどではないにせよ、あの奇妙な後輩にあれだけ懐かれるだけの事はある。

「お前はもう全部終わったのかよ?」
「終わったから持って来てんの」

七代千馗にとって勉強とは趣味のひとつである。けれど壇にとってはそうでない事を七代はようく知っているので、わざわざ持ってきたのだが。

「ふうん…………」

鈍い反応を返し、壇はそれらをぽんとテーブルの上へ置いてしまった。それきり、自分のノートを持って来たり筆記用具を取りに行ったりする気配はまるでない。

「、おい」
「いいよ、今、宿題とか」
「はあ?」
「持って来てくれたのは有り難いけどよ。
 今はそういう気分じゃねえんだ」

気分とはどういう事だ。壇の言葉が全く予想を越え過ぎていたので、七代は何と返したらいいのか判らなくなった。
七代が唖然としている間に壇はフォークを七代の手ごと掴み、洋梨のタルトをひとかけら削って口に入れた。即座に眉を顰める。

「ぐあ、やっぱ甘い……」
「、じゃあ食うな?」

壇の手からフォークを取り返す。

「ていうか、気分とか気分じゃないとかそういう問題じゃないだろが、
 お前だってまさか是非とも自力で宿題片付けたい!とかじゃないだろ?
 写させてやるってこっちが言ってんのになんで写さないの?
 何なの、気分とか?
 お前がさ、まあ、どうしても宿題全教科すっぽかしてえ、っていうなら止めないけど、
 けど頼むから現国だけは写してくれ。
 その他はもういいから。な?」

本気でだらりとやる気の無いらしい壇の様子に、むしろ七代の方が慌ててしまった。
他ならぬ壇自身の事である、七代の事では無い。だから、写したくないというのならそれでも構わない、けれど、現代国語だけは話が別だ。羽鳥朝子にはあまり心配も迷惑もかけたくない。

「……現国って、宿題どんなんだ?」
「漢字とか」
「面倒臭えなあ」
「いいから写せって!
 書くだけだろうが、書くだけ!」
「まあ……確かに羽鳥センセイには世話んなってるしな………、そうだな、写すか。
 後で」
「あ、あとでェ?」
「だから言っただろ、今はそういう面倒臭い事をやる気分じゃねえって。
 全部終わってんならこれ、借りててもいいだろ?」

そう言う壇の表情は平然としている。どれだけ見詰めてみても、七代はこの男が何を考えているのかよく判らない。そもそも、今日何故この男があんな妙なメールで七代を此処へ呼んだのか、その理由も判らないままである。こうして壇の様子を見るに、何か特別な理由もなさそうなのだが。それはそれで妙過ぎる。
疑問符を脳裏に溢れさせながら残りのケーキを平らげる間、壇は頬杖をついたまま七代の様子をじっと眺めていた。何となく、ほんのりと楽しそうに。

「あァ、そうだ、お前、あれやってもいいぜ」

壇が注いだコーラを七代が飲んでいると、壇はふとテレビの方を指差した。その先を追う。

「あれ?」

其処にあったのは。ぴかりと黒く光る据置型次世代ゲーム機である。それを見た七代の眼の色が少し変わった。

「うわ、あ」
「お前、ちょっとやってみたいとか言ってただろ?
 一時期すげえ欲しくなって買ったけど、最近全然触ってないしな……
 携帯機のがどうも気楽でよ」

ちなみに自室にはテレビが無いので七代は携帯機しか持っていない。居間などに行けばテレビはあるが、それを占領してまでゲームに興じようとは思わないので。

「最近買った?」
「いいや、ちょっと前……だから容量少なくてな、損した」
「へえ」

洞でも何処でも、七代は未知のものに弱いようで、そういったものを前にしてしまうと普段のひんやりした冷静さが少し鳴りを潜めるらしい。
電源マークの上で指を滑らせ。テレビの画面にゆるゆるとメニューが立ち上がってくるのを七代はじっと興味深そうに見詰めている。なんとなく。壇はその様子をいつも猫のようだと思う。猫が何か動くものにひどく気を取られる、あれに似ているような。
その横顔を眺めながら壇はこっそり笑って、七代の手許を覗き込む。

「ああ、まずこの真ん中のボタンを押したら動くから。
 そしたらまあ、出来るだろ」

言って、七代のすぐ後ろで胡坐をかいた。
黒い画面にロゴが流れてそれからすぐにオープニングムービーが始まったが、七代はすぐさまそれを切ってゲームを開始する。格闘と呼ばれるジャンルのゲームである。七代千馗本人の戦闘能力は壇も重々知っているが、こういったゲームも七代は得意なのだろうか。そう思いながら七代の肩越しに画面を眺める。

「必殺技コマンドのボタン、見るか?」
「いや、いい」
「知ってんのか?」
「知らん、けど、」
「、……確かに必要無さそうだな」

七代が操る白い胴着の男は遠距離攻撃を放ちながら、跳んでかわす相手に合わせて対空攻撃を仕掛けている。倒れかけたところを蹴り、追い打ちをかけ。開始早々相手のゲージがどんどん減っていく。何とも安定した、とても初めてとは思えぬ動きである。

「七代、お前やった事あるんだろ」
「無い、って」
「詐欺だなあ」
「失礼な」

易々と男は対戦相手を負かしてしまい、次の相手へ切り替わる。
その画面から眼を離して、操作する七代の背中を壇はじっと眺めた。
ボタンを押すごとに揺れる肩。白い首筋にかかる黒い色の髪。耳の輪郭。顎へ続いていく細い線。
教室で壇が、ずっと眺めていた七代の後ろ姿である。今それはもっと近い位置に在る。その背中を。壇はそのまま後ろから抱き締めた。

「、…………」

当然ながら七代の身体がびくりと驚き、一瞬手が止まった。

「攻撃、受けてるぞ」

右の掌を肩へぐるりと回し、左の掌で腹を抱く。そうして肩の上に顎を乗せながら壇が言うと、七代は斜め後方に向かって頭突きをした。

「お前の、所為だろがっ」

連続攻撃を受けてしまった胴着の男は即座に持ち直して足払いを見舞う。体勢を崩した相手に向けて、今度は此方が攻撃を繋いだ。見ているとゲームの難易度を勘違いしてしまいそうなプレイである。
壇は七代が次の舞台に進むのを見届けてから瞼を閉じる。ぴったりと触れる背が暖かくて、とても気持ちが良かった。

「……………………壇きゅん」
「はァ?」
「こうされてると、ちょっと、割とやりづらいんですが」
「そうか?お前なら大丈夫だって」
作品名:ゴールデンレトリーバー 作家名:あや