恋のはじまり
「八千代さーん」
事態を察した彼女が彼らを制すると、ここぞばかりに山田さんは泣きながら轟さんの胸に収まる。 ああ、面白いくらいに山田さんは佐藤くんの機嫌を損ねることが上手くて、思わず苦笑がもれてしまった。うん、凄く楽しい。山田さんはそうでなくちゃ。
「泣かせてませんよ女の子は。これは山田です」
「そうだな、これは山田だ」
恐らく即答する小鳥遊くんの頭の中では、本当に女の子イコール小さくて可愛いものしか該当しないのだろう。その理屈に便乗して佐藤くんも新しい煙草を取り出しながら頷く。
「ちょっと変な所で勝手に意気投合しないでくださいよ」
胸の中に収まりながらもまだ批難の声をあげる彼女に、佐藤くんはふうと長く煙を吐いた。機嫌はもちろん頗る悪い。
「…そうだな。今日はオールナイトで山田の指導でもするか」
呟かれたその一言に彼女はひっと体を縮こませると、先程の会話を思い返しあれこれと考えているふうに俺と彼の顔を順番に見比べた。
「…や、山田そういえば今日は用事があるんでした。今思い出しました」
矢継ぎ早に述べられる言葉を聞きながら、煙をまた一息吐いて煙草を終わらせた彼はふいに隣にいた俺に視線を向けてきた。
「そうか、それは残念だ。だそうだ、相馬」
ぽんっと置かれる肩の手を見ながら、そういうことかと小さく頷きかけて次の言葉をかけてやる。
「はいはい、夕飯は二人前買って帰りますよー」
佐藤くんにしては上手く逃げたな。いや、きっとこのバイト始めてから逃げのスキルがどんどん上がっているんだろうなー
そんな浮ついた事を考えていたら、幾分不思議そうな顔で俺を見つめている小鳥遊くんに気付いた。彼も俺と目が合うなり、その疑問をストレートに投げかける。
「あれ、作らないんですか、相馬さん」
その突拍子もない質問に…まぁこんなナリしているから仕方ないっちゃー仕方ないんだけど、そんなに豆な男に見られていたとは驚きだった。普通男が男を待つのに料理は作らないよ小鳥遊くん。と突っ込みつつもあえてそれは言わないことにしよう。
「さすがにこんだけ作ってると帰ってまで作りたくないなぁ、ねぇ、佐藤くん」
「そうだな」
俺の振りに短く答えると、出してあったまな板と包丁を乱暴に流し台に入れて洗い物を始める。この時間帯はあまり人が来ないし、包丁を使う料理を注文するお客さんは稀だ。まぁだからこんな風に雑談に花が咲いてる訳で、俺もそれを合図にその辺の調理器具を洗い場へと運んでいく。
「へぇーそういうものですか」
「うん。男の一人暮らしなんてそんなもんだよ」
「もはや息するのと同じくらい家事が自然の一部というのはやはり問題なんですかね」
あきらかに肩を落とし虚ろな目をしながら小鳥遊くんが溜息をつくとカタナシくん元気出して!と可愛らしいフォローの声が入った。
「まぁいいんじゃね。出来ないよりは出来た方が」
「そうそう…気に病むことないよ。病んでるのは佐藤くんの無駄な恋ごこ…ぐ」
佐藤くんに続き、自分もフォローに加勢したら思い切り彼に足を踏まれた。
い、痛!足、足!痛いよ、佐藤くん!
踏まれた片足の痛みを涙目で彼に訴えるが、見てもいないし止めもしない。
ねえ、ちょっと、本気で痛いんですけどー
「まぁ、佐藤くん。やっぱり好きな子いるんじゃない」
ぱたぱたと都合のいい部分だけかい摘まんだ彼女が、可愛らしく佐藤くんの元へ駆け寄ってきた。嫌な予感だ。そろそろ退散しようかなー酷くならないうちに…とそろりと彼に視線を送ると、もの凄い怨みがましい視線とぶつかった。
「…相馬、今夜覚えてろよ」
「あはは、佐藤くんのえっちー…ナンデモナイデス包丁閉まって佐藤くん」
上では洗い立ての包丁を向けられ、下ではぐりぐりと片足に力をこめられるこの二重苦。もう、轟さん。この人早く連れてって下さい。
「佐藤さん、やらしいです」
これまた突拍子もなく聞こえてきた俺を加勢するかのような発言に、佐藤くんはまた溜息をつき、前にうなだれたままぼそりと彼女に呟いた。
「…山田も倍返しな」
「えーそんな山田はごく一般的な感想を述べたまでなのに」
轟さんを取られて不機嫌な様子の彼女は、まだ食いつこうとキッチンの中に入ろうとしたが、その道を小鳥遊くんに阻まれる。
「ほら行くぞ山田。お前の持ち場はここじゃない。行ってこい、お呼びだ」
ピンポーンと点滅する光を指差され、水とタオルを差し出された彼女は口を尖らせながらもそれを受け取る。
「ちぇ、はーい」
「はいだけで宜しい」
背中を押すとしぶしぶ彼女はお客さんのいる方へ足を進める。
「小鳥遊くんもすっかり葵ちゃんの世話が上手くなったわね」
ほわーんと轟さんに褒められて苦虫を潰したような顔になった小鳥遊くんは、何も分かっていない彼女に一言言葉をぶつけた。
「なんででしょうね。この店に来てからやたら無駄な対処スキルがレベルアップしました」