恋のはじまり
また、お客さんが入りはじめる夕刻時。ワグナリアにはいつもの雰囲気で時が流れる。
「相変わらず彼らはやってるねぇ。あーなんか新しいネタでもないかな」
「…相馬は最近本音を隠せなくなったな」
「え~そんなことないよ。俺一応秘密主義」
「うそつけ」
料理を続けながらも俺の方を一瞥すると、何か気付いたように片方の手で何やら制服のポケットを探っている。
「まー確かにね。でも、面白い展開の方がみんなも楽しいでしょ」
「どーだか。あ、ほれ鍵」
目の前にシンプルすぎる銀色の鍵を渡される。何もついてないのが彼らしいなぁと思うけど、どうやらこの鍵がスペアらしいことを最近俺は知った。確かに自分ちの鍵を生で持ち歩く人はなかなかいないよなと思いつつ、わざわざスペアを用意しなくてもと疑念が沸く。
まー最近大学が暇すぎてバイト先と佐藤くんちに入り浸る俺も俺だけどさ。
「ありがとう。いつ取りに行ってたの、鍵」
「さっき轟の話し聞くついでに」
どうせまた惚気話しでも聞かされていたのであろう。この二人は本当に一歩進んでも三歩下がり、さらには方向まで見失う奇特な組み合わせだ。
「ふうーん、ま、深くは聞かないでおいてあげるよ」
「お前の期待する展開はねぇぞ」
「うん、だって目に浮かぶもん。佐藤くんは本当にヘタレなんだから」
「…」
無言のまま伸ばされた彼の手にはいつもならしっくりくるフライパン。この状況で持たれると何故だろう、とても危険な予感がする。
「ああ、無言でフライパンに手をかけないで!これサラダ!火も油も使わないごく普通のサラダ!そしてフライパンは殴るためじゃなく食べ物を炒めるために存在しているんだってば!」
じりじりと寄ってくる彼に、彼が作っていたサラダを手に持ち全面に主張させながら、キッチンの奥へと体を退行させる。
「…相馬」
「何、ちょ…痛」
なおも距離を狭める彼に腕を引かれ、ああ殴られると体を身構え目をつぶったが、なかなかその衝撃がこない。
…あれ?痛…くない…?
その空白の時間に何が起こっているのかと閉じた目を開き頭上を見上げると、頭にくるはずだったフライパンの衝撃は中途半端に頭にコンと音を立て、俺と佐藤くんの顔をフロアから覆い隠す。そして目が合ったその時に、ふにとした感触と煙草臭い香りが俺の目の前に広がった。
…は…?
「…やっと黙ったな」
離れたとはいえ近すぎる距離で真っ直ぐ見られているというこの状況に、心臓が驚くほど煩く鳴り響いていた。うまく顔が取り繕えない。どうやら俺はキスされた。その事実だけが頭をぐるぐる駆け巡る。かけようにも上手く言葉が見つからず当たり障りのない言葉を投げかけた。
「…それをどうして轟さんにやらないのさ」
「さあな」
「さあなって…ああ!動揺してサラダが」
フライパンは炒めるもの!とサラダと同時に油も突き付けていたため、サラダには油がどっぷりかかってしまった。
「…こ、これが本当のサラダ油…」
苦し紛れに呟くと
「つまんねーこと言ってんな」
と今度は本当にフライパンの衝撃が頭を襲った。痛みに頭を摩りながらどうしようかと佐藤くんに油塗れのサラダを渡す。
「ま、これくらいならちょっと直せばばれないだろ」
油をだばだばと別の容器に移すと、その上から洋風のドレッシングをかける。
「あとクルトンと半熟卵でも乗っけて今日のオススメサラダですとか言えばなんとかなるだろ」
手際よくサラダを復活させた彼に感心しながら言葉を投げかける。
「佐藤くんは妙なとこでアグレッシブだよね、ヘタレな癖に」
「…お前は妙なところで神経質だよな」
サラダをカウンターに出し、妙な沈黙が二人を襲う。どうしよう、何か喋った方がいいのか、しかしまた煩いとキスでもされたらたまったもんじゃない。 お誂え向きなんだか客先も今落ち着いている。沈黙も長い。よし、ここは逃げよう。そう判断を下した俺は早々話しを彼に切り出した。
「…ふう。佐藤くんが変なことするから調子狂っちゃったよ。俺もう一時間くらいで上がりだけど休憩もらうね。今暇だしいいよね」
「おーついでに戻ってきたらパセリを倉庫からよろしく」
「はいはい」
ふうと短い溜息と利き腕をを軽く回し、俺はその場を立ち去ることに成功した。