奇跡の軌跡
肩まで浸かれよ、でないと鬼畜で過保護な眼鏡が来るから」
「めがね?」
それはどんな種類の眼鏡なのだろうと雉明が考えていると、七代は首をだらりと壁に預けて深く息を吐いた。
「俺は温泉ってほとんど行った事は無いけど……
確かに、疲れが取れる感じがするよな、風呂は」
白い湯気で少し霞む七代の横顔を、雉明は眺めた。
「確か……含まれる成分によって効能がそれぞれ異なる、んだったな。
湯は温かいから、成分が無くとも血行を促進する所為で身体に良いのかも知れないな」
「そうねえ。
雉明は風呂、好きなの?」
訊ねられ。雉明は少し視線を漂わせた。
「…………、好きかどうかは、考えた事が無かった。
普通、だと思う」
「なんだ、銭湯に行きたいって言うから風呂が好きなのかと思ってたよ。
ただ行ってみたかっただけなの?」
七代は笑ったが、雉明はただ真顔のまま頷いた。
「七代と共に行って、楽しかったと言うのがとても気になって。
出来れば、おれも、一緒に行ってみたいと思った」
雉明の真摯な眼が七代を捉える。雉明の抱く夢の比重は、風呂では無く、七代と共に、という部分にかかっていたようで。七代の胸郭にもゆるりと湯が通った。
ほんの小さな希望を大事に抱くこの男を。
絡め取って、縛って、ひとつの道へ追い込もうとする、その黒い糸を断ち切ったのは七代千馗である。幾つもの死を看取り、幾つもの生命を礎に眠り、そのたびに悲嘆して遂に己の破滅を望んだこの男の手を掴み、永劫に続く連鎖から引き揚げた。当初からの目的でもあったし、己の身が贄として必要なのだと聞かされても尚、七代はずっと札を封印するつもりでいた。周囲の人々が悲しむかも知れない事は勿論、七代の悲しみでもあったけれど。
しかし七代の全ての発端となったこの男が鬼札であり、封印という行為がこの男を救う事にはならないと知った時、七代は封印の道を蹴った。連鎖を断つ為に、この男ごと全てを消してしまうのも、救いである筈が無い。とて、花札がこのまま残ればまた、羽鳥の血が泣く事になる。
七代は憤怒した。
何故、捨てねばならないのかと。捨てられるものなど何ひとつ無いというのに。
憤怒しながら、道を探した。
そして、最も困難な道を選ぶ事になった。
其処にしか己の求めるものが無かったのだから、後悔も不満も無い。
七代はそれを果たした。
成し得たのである。雉明の、白の、そしてかの楼万黎の手さえ離さずに。成し得て当然だと七代が思ったそれは、奇跡である。
七代の成し得た奇跡は、今眼の前で、七代の黒い眼を見詰めている。
「…………また、かわいいこと言って」
笑って、七代は少し薄紅色に上気した雉明の頬を撫でた。奇跡の感触を確かめる為に。己が偉業を達成したのだと、そんな風に考えた事は無かったが、こうして雉明に触れるとようやく実感する。
ああ、己は、本当にこの男を救えたのだと。この男がもう、黒い連鎖の中で泣く事は無いのだと。
頬を撫でられて、雉明は少しくすぐったそうに眼を細めている。頭に乗せたタオルを落ちないように押さえながら、七代はその頬に口付けてみた。間近に、瞬く雉明の睫毛が動く。頬はちゃんと湯に温められていて、仄かに温かかった。
そうして七代は、雉明と己の格好が今どうであったのかをふと思い出し、少し胡乱な気持ちになって大人しく上体を退いたのだが。
静かに七代を見詰めたままの雉明が、唇を開いた。
「七代。
今日は、……………………やらないのか?」
主語の無い雉明の言葉が七代を存分に驚かせる。
「な、……何を?」
雉明は一体何を言いたいのだろう。
続く言葉を予測し、七代は珍しく落ち着き無く次の己の行動についてどうするべきなのかと考えていたのだが、雉明は静かな表情のまま全く違う方向を指差した。
「向こう」
つられて、七代も其方へ眼を遣る。雉明の指が示しているのは、仕切りになっている壁である。嫌な予感がした。
「こういう事は………………犯罪行為の一種だと思うんだが。
しかし、銭湯につきものなら………おれは止めない事にする」
「、雉明」
七代の眼の前が暗くなる。
「覗く、んだろう?女湯を」
七代のこめかみを、熱さの所為では無い汗が流れ落ち。
真顔の雉明を見詰めながら、白への小遣いを半分にするべきか如何かを七代は本気で考えた。
温められた皮膚が、冬の風を跳ねのける。
雉明と七代は揃って湯気を纏いながら、来た道程をのんびりと歩いていた。七代に買い与えられたアイスに気を取られているので、雉明の足取りがたどたどしく遅い。そのアイスを隣からひとくち奪って、七代は伸びをした。
「よく浸かっといたから今のところ寒くないな。
湯冷めするから早く帰った方がいいけど……アイス寒い?」
大事そうにアイスを手にしている雉明が首を振る。
「美味しい」
「それは良かった、やっぱり銭湯から上がったらアイスか牛乳だから。
ま、オトナなら麦酒だろうけどな」
言って、七代はまた前回の事を思い出した。牧村久榮がそんな事を言っていたのを。
そしてふと思う。皆があの時口にしていたのは、楽しいと言っていたのは、何に対してであったか。
それは。
大勢揃ってだから、である。皆と一緒だったから、である。だから、白も楽しかったのだ。
雉明が銭湯に行きたいと言うのでとりあえず連れてきてしまったが、あの時のようにとまではいかなくとももっと誰かを誘うべきでは無かったか。雉明自身は、七代と共に来たかったのだと先刻口にしていたけれど。
今更ながら七代はその事に気付いてしまった。
「、七代?」
突然思索に落ちた七代の様子を見遣り、雉明は不思議そうに首を傾ける。
「…………いや、前来た時はさ、ほんとに大人数だったんだ。
ものすごい賑やかで……
まあ、賑やかさの大半は主にひとりの所為だったような気はするけど。
だから、白も楽しかったんじゃないかなと思って」
溶けないようにアイスを注意深く見詰めながら雉明は頷いた。
「確かに、なかなか無い機会だったと、白は言っていた。
それが面白かったのだと」
「だよな」
「それが?」
「いや、だからさ、今日も、もっと誰か誘うべきだったのかなと思ってさ。
冬休みだけど声掛けたら誰か捕まるだろうし。
まあ、壇とかさ。壇とか」
他に都合がつきそうで尚且つうまく場を丸めてくれそうな人材を思い付けずに、七代は唸っている。
「ごめんな、賑やかさは再現してやれなくて」
冬休みはまだ残っている、その間にまた次を考えよう。
そう考え始めた七代の顔を、雉明は不思議そうに見詰めた。雉明が眼を離した隙にアイスが溶けて指を伝ったが、雉明は視線を戻そうとしない。
「、ああ、雉明、アイス溶けてるし、」
「おれはこれでいい」
ポケットから街中で押しつけられたティッシュを取り出そうとした七代に、雉明の言葉が掛かった。本当に静かな雉明の視線と七代の視線がぶつかって、結ばれる。
七代が意味を問い返す前に、雉明は言葉を継いだ。
「『七代と一緒』で、そしてちゃんと『楽しかった』。
おれの夢は、きみが正しく叶えてくれた……きみは、いつもそうだな。