銀の弾丸などはない
ファビー・サクソンという何十年も前の女医の肖像画をここに掲げたのは、オリバー・サックスが幼い頃に彼女に助けられたことがあるからで、清貧を貫いた優秀な女医である彼女に敬意を捧げる意を込めてそうしているからだ、というような文で説明は結ばれていた。
「…奇跡の手、…ファビー・サクソン…」
エドワードは口の中で小さく繰り返した。夕闇が濃さを増したように思えて、我知らず彼は肩を震わせた。
とりあえずは宿に帰り、エドワードはごろんと横になった。
頭の中でとりあえず気になっているのは、あの肖像画だった。あの肖像画の女性は、特にあの瞳の色がルーシーを連想させた。関係あるとは思えないが、どこかで何かが引っかかる。
そういえば、ルーシーは今頃はどうしているだろうか、とふと思った。何しろホークアイ大尉を擁した軍部女子寮なんて、思ううにアメストリスいち堅牢な砦に違いないだろう。だからあまり心配はしていない。彼女達は女性だが、…女子寮という響きに惹かれて迷い込んだ馬鹿どもが毎回どんな末路を辿らされるかをエドワードはよく知っていたので、心配するだけ馬鹿馬鹿しいとさえ思っていた。
だがそれはそれとしても、まだ子供で、女の子だ。色々不安に思うこともあるだろう。
「あ、でも、九歳か」
自分の九歳の頃を思い出してみる。あの頃母はまだ生きていた。
帰ってきもしない父親に腹を立てたことはあったけれど、どちらかというと忘れていたという方が正しいように思う。あの頃は平和で満ち足りていた。不幸なことがあるなんて思いもしなかったのだ。それが、どんなに身近に起こる可能性があるかなんて、考えたこともなかった。知らなかったわけではなかったのに。
乗りかかった船だ。あの子を、祖父母のもとにかえしてやりたいと思う。そして、父親がもし、万が一、彼女と単に一緒に暮らしたいだけだというのなら、その和解に一役買ってやることくらい造作もない。
ただ、あんな風に大勢の人相のよろしくない連中をやって連れてこさせようとする、叔父を父親と名乗らせて軍部にまで乗り込んでこさせるような男が、まっとうであるとは到底エドワードには思えなかった。
そしてどうしてか胸が騒いでいた。これはよくない兆しだと。
…ロイにとって、妨げになる予感がしていた。
――私は自分に嫉妬しそうだ。
不意に、耳にあの台詞が蘇ってきた。それで一瞬、エドワードはぼうっとしてしまう。あれはどういう意味だったんだろうか。いつか、問い質すことができるだろうか。
「…オレが帰ったら」
記憶の中の彼に呼びかけるように、ひそやかにエドワードは口にした。
「…あんたに、言ってもいいかな…」
翌日は、第二号の病院へ向かうべく、エドワードは早めに出発した。どこかでタイミングが合えば、何食わぬ顔をしてオリバー・サックスを訪ねてやろうと考えていたが、とりあえずはまだ情報を集めたかった。
一度定時連絡としてロイに電話を入れてみたが、会議中だとかで捕まらなかった。しかし心得た副官殿がお出になられたので、むしろ情報伝達という意味ではスムーズだったかもしれない。結局はモチベーションの問題だ。
『ルーシーちゃんは元気よ。明日あたり、おじいさんのお見舞いに行こうと思うの』
「そっか。それはいいね」
電話越しのやわらかな声に目を細めて、エドワードは相槌を打った。そして締めには、それじゃあいつによろしく、そのお決まりの台詞を渡した。
次の汽車を待ちながら、エドワードはぼんやりと考えていた。珍しく本当にぼんやりと、とりとめもなく。もちろん周囲に気は配っていたけれど、田舎の駅で他に人もなく、危険のかけらもないようなのどかな青空が広がっている下で、気を張っているのもある意味で愚かなことではあった。そして手持ちの本もなく、あとは彼には考えるくらいしか仕事がなかったのも事実だ。
ふと、なんとなく思い出したことがあった。
あれはいつだったか、ロイと歩いていた時のことだ。
自分はまだがむしゃらに走っていた頃で、ロイは…ロイは今とあまりかわりがなかったように思う。
ロイは疲れているように思えた。けれども、お疲れ様とか、そんなことは今より遥かにとんがっていたエドワードに言えるわけもなく、気にはしていたけれど特に何かを口にすることはなかったのだ。
けれどその時、不意に、呼ばれたような気がして。だから顔をあげた。鋼の、確かにロイにそう呼ばれたような気がしたのだ。
だから顔をあげて、なに?、と問いかけたら、ロイは驚いた顔でこちらを見ていた。どうやら呼ばれたわけではなかったらしい、とそれで気づいたけれど、それにしてはロイはからかうでもなくエドワードを見ていたから、…呼びたくなかったわけではないのだ、とういことはわかった。
けれどまさかエドワードが振り返るとは思わなかったから、ロイは驚いているのだと。
そんなことがその後も何回かあった。本を読んでいる時、何かを考えている時、行き詰っている時。ロイが、苦しそうな時。
鋼の。
そう呼ばれたような気がして顔をあげると、そこには驚いたような顔をしているロイがいて、なに、と瞬きすれば照れたような顔をしていた。
なんだかその不思議なつながりが自分は嬉しくて、…嬉しい、と思うその根本に気づいた時にすべてを決めていた気がする。
ロイのためになりたいと思った。あのほっとしたような顔を、ずっと守りたかった。彼に気づいてもらえなくても構わない、彼が彼のままでいられるように。そうして、いつか彼の望んだ未来が現実になるように。
エドワードは多分捧げることでしか誰かを大事にできなくて、そういった部分がどれだけ身近な人たちに心配をかけるかはわかっていたけれど、それも含めての自分なのだと既に達観していた。
恋に身を捧げる人生が許されるなら、自分の生き方だって、問題なんてないはずだった。
まだ来ない汽車を待ちながら、エドワードは目を閉じた。
また彼の呼ぶ声が聞きたいと思いながら。
二号の病院は、また、これといって特に何の変哲もなく、普通に病院だった。これはやっぱりあやしくないのか、とエドワードは自分の勘について少し疑いを持ち始めたわけだが、またもや談話室にてあの肖像画を見つけたときに、そうでもないかもしれない、と考えを改めるのを保留にした。
今朝の定時報告では「ファビー・サクソン」という名前だけは告げてあった。仕事が立て込んでいなければ、何か調べてくれているかもしれない。この際、ただの女医でした、という結果でもかまわない。むしろそうであれば問題は少ない。
だが、そんなことはないような気がエドワードはしていた。
二号の病院がある街は最初の街より少し大きくて、少し乗合馬車に乗るくらいの距離に五号の病院もあった。
どうせだからそっちもいってみるか、とエドワードは何気なく足を延ばしてみた。とりあえず三つくらい見て調べたら、なんとなく様子は定められる気がすると思ったので。
はたして、午後の面会時間か何かだったらしく、五号の病院の談話室は前のふたつに比べて若干込み合っていた。