銀の弾丸などはない
しかしあの肖像画はやはりあって、エドワードは一応それだけは確認しようと思い、そこへ近づいて行った。
と、込み合っているせいかと思ったが、ひとりの男がその肖像画をじっと見ていた。見舞客だろうかと思ったが(患者には見えなかったし、医師の服装でもなかったので)、どうも雰囲気が違うように思えてエドワードは瞬きした。あまりじっと見ているのも不審なので視線をはずしてちらりと様子を伺うが、やはりじっと見つめているだけだ。年齢はおそらく五十代から六十代といったところ。服装からすると、現役を退いて悠々自適の紳士、なんて雰囲気だ。
「……」
彼は名残惜しげに一度目を細めた後、ゆっくりと首をめぐらせ談話室を出ていく。エドワードは一瞬考えてから、…彼を追うことにした。
病院を出て数歩というあたりで、エドワードは前を行く男に声をかけてみた。
「…なにか?」
振り向いた男は、紳士然とした態度でエドワードを見ていた。取り澄ました感はないが、といって、粗野な感じもしない。
「あの、突然すいません。さきほど絵を見てらっしゃいましたよね?」
エドワードの唐突な切り出しに、男は二度程瞬きした後、少し照れたように笑った。
「これはお恥ずかしい…」
「いえ、私こそ不躾にすみません」
エドワードは丁寧に頭を下げた。今はこの男の話が聞いてみたかった。気に入られるには、とりあえず丁寧な態度をとるのが一番早い。まして、この手の人間が相手なら。
「あの肖像画に、何か思い入れが…?」
エドワードは慎重に切り出した。
男は丁重な青年の態度に気を良くしているようで、柔和な表情を浮かべて頷いた。
「ああ…、ファビー先生の絵は、ここのが一番似ているから…」
「…一番、似ている…」
エドワードの目から見て、各々の病院の肖像画に大きな違いはないように見えた。しかし、どうやら彼の目を通すと違うらしい。
そして、この台詞から、彼は実物を知っているらしい、と見当をつける。似ているかどうかなんて、実物と比較しないことには判断のできないことなのだから。
「ファビー先生はね、私の命の恩人で、初恋の人でね」
初恋、という単語にエドワードは面食らった。そんな話題が出てこようとは。しかし、そうなんですか、と穏和に返すに留める。
「あの絵が一番似ている。だもので、ついつい、通ってしまって」
お若い人に、こんな話をして恥ずかしい限りだが。
そんな風に言って男は頭をかいた。だが、エドワードは勿論、恥ずかしいとも思わなかったし馬鹿にもしなかった。生きた情報源に出会えたのだから。
「大変申し訳ないのですが、ミスター。もしお時間がよろしければ、あの肖像画の方について教えて頂けないでしょうか?」
エドワードはにこやかに笑って握手を求めた。
「私はセントラルの大学で医学を学んでいるのですが、そろそろ進路を決める時期でして――」
男は面食らったようだったが、幾分照れたような、驚いたような顔を見れば、感触は上々だろう。エドワードの笑顔は見事に効力を発揮したらしかった。
その後、病院に程近い喫茶店に入り、ファビーについて男が知る限りの情報をエドワードは手に入れることが出来た。
もっとも、会話の大半はファビーがいかに素晴らしい女性であり、医者であったかということに終始し、さほど実りがあったとも言い難かったが。
それでも勿論収穫はあった。
「では、ファビー先生は、ミスターの妹さんを?」
「あれは、本当に奇跡だったよ。妹は助からないと誰もがさじを投げたんだ。でもね、お若いの。ファビー先生だけは諦めなかったんだよ」
男は皺の多い顔をさらに皺だらけにして、夢でも見ているような表情で語った。
「…本当に魔法のようだった。ファビー先生がしていた指輪の石が光ったんだ」
「…石?」
「ああ。あれはルビーだったのかな、真っ赤な石だった。それが手当ての時にきらきらと光っていたんだ。あれはなんだったんだろうなぁ…しかし、とにかくそれからだ。妹が日に日に元気になっていったのは」
赤い石。
それは、本当にルビーだったのか。そういった当たり前の宝石だったのか。そんなわけがあるか、とエドワードは息を飲んだ。まさかこんなところでそんなものに出会うとは思わなかった。
因縁というものがあるのかもしれないと思うのはこんな時だった。確かに、エドワードはあれに縁があるのだと認めざるを得なかった。
「おかげで妹は五十の今でもピンピンしているよ。それもみんな、先生のおかげだ」
男は本当に感謝している顔で笑った。何も知らなければ確かにそうだろう。エドワードだって、赤い石などと聞かなければ、まだそう思っていられたかもしれない。
「学生さんもお医者になるのかい? そうしたら、いつか先生のようなお医者さまになってくれないかい」
「ファビー先生のような、ですか…」
ある意味では今も近い場所にいるのかもしれないが、と内心で唇を歪めながらエドワードはきれいに笑ってみせた。感傷なら一人になったときにいくらでも浸れる。
「ああ。あの人は、本当に立派なお医者さまだったからね」
親切な初老の男と別れた後、エドワードは宿を取るか駐在の憲兵に電話を借りるかで数秒迷った。
「…大本命に会うって手もなくはないんだけど」
ぽつりと口にして、元々気の短いエドワードはかなりその誘惑に心惹かれるものを覚えた。
覚えたが、しかし、ロイの心配そうな顔と弟の怒り笑顔(アルフォンスは怒っている時ほど輝かんばかりの笑顔を見せてはエドワードを恐怖の底に突き落とすという悪癖を持っていた)が脳裏に浮かんで、取り下げた。危ないところだった。
「…とりあえず、…寝床と飯だな」
少しだけ残っていたコーヒーを飲み干すと、エドワードは身軽に立ち上がったのだった。
エドワードが地方で(エドワード的には最大限)地道に諜報活動を行っていた頃、セントラルでは。
「ああ、すまない、待たせたね」
司令部をアルフォンス・エルリックが訪れていた。訪ねた相手はといえば、共通のトラブルメーカーを身内にもつ(片方は肉親でこそなかったが、既に身内とでもいうべき近しさをもっていた)相手だ。
ロイ・マスタングは、珍しい来客に目を細め、最後の書類にサインをすると嬉しそうに立ち上がり、来客の隣に並んだ。
「もういいんですか?」
「ああ。全部終わった。それより何を食べる? どこでもいいよ」
ロイの足取りは軽く、楽しみにしていることは明らかだった。こんなに素直な人だったかな、なんてこっそり思いながら、アルフォンスは声をかける。
「あの、やっぱり悪いですよ。食事をごちそうしてもらうなんて」
「何を言うかね。正式な祝いもしていなかったんだ、それくらいさせてくれたまえよ」
「祝いって…」
「セントラル中央大学の医学部はトップクラスの難関だと聞いているよ。しかも君、首席だったそうじゃないか」
アルフォンスは苦笑で答えた。確かに入学試験は首席だったし、院に進んだ今でもその席次は維持しているが、兄の「弱冠十二歳にして国家錬金術師試験合格」を上回るとは彼は思っていなかった。あれに比べればやさしいものだ。