銀の弾丸などはない
「でも、首席だと授業料が全額免除だって聞いたんです。そうしたら、首席をとるしかないって思って」
「君と同学年の生徒には同情しないこともないよ」
ロイもまた困ったように笑って返す。ロイからしてみれば、エドワードは確かに天才だが、その弟にしても、頭一つも二つも飛びぬけた俊才であることにかわりはない。彼らふたりが兄弟であることは、もはや奇跡に近い確率なのかもしれなかった。
「…それに」
あたりに人が切れたとき、ぽつりとロイは付け加えた。アルフォンスは不思議に思い首を捻る。
「それに、君が生身になったお祝いを、ちゃんとしていない」
「…准将…」
「君が苦しくてもう食べられないというくらい、今夜はなんでも食べようじゃないか」
ほんの少し斜めになって見つめてきたロイに、その不器用な優しさに、アルフォンスは目を細めた。
これなら兄が惹かれるのも無理はない、と思いながら。
ロイがアルフォンスを連れて行ったのは、こぢんまりしたレストランだった。個室とまではいかないが、席と堰の間にはパーティションが置かれ、さりげなくプライバシーが守られていた。
ロイは慣れた様子でオーダーを入れると、最近はどうだい、と世間話のように近況を尋ねてきた。それに大学での様子を答えたりしているうちにまず酒が運ばれてきた。乾杯だけでもさせてくれ、というのに応じて軽くグラスをあければ、軽くさわやかなフルーツの香りがした。口当たりの良さにすぐ干してしまえば、案外飲めるのかな、とロイが嬉しそうに笑った。
それから簡単な食事がいくつか運ばれてきて、人心地ついた時だった。ロイが、ふいに真面目な顔をしたのは。
「…アルフォンス。例の話は、お兄さんからは、どのくらい聞いている?」
外に出たかった何割かはそれにも原因があるのかな、と思いながら、アルフォンスもまた真面目な顔をする。
「…あらかたは」
「そうか」
ロイは暫し考えるような風情で照明を見た後、ポケットから手帳を取り出し、何事かを書き付けた。
「…これは?」
無造作に切り取られたロイの手帳には、何かの番号のようなものがふたつ書いてあった。
「セントラル中央郵便局に私が借りている私書箱の番号だ。下が暗証番号」
「私書箱…」
「そこに、今のところの資料が預けてある。暇なときにでも受け取っておいてくれ」
「…え、」
アルフォンスは一拍おいて目を見開いた。それは…軍属でもない自分に許されることなのだろうか。そう疑問に思ったからだ。しかしロイは頷いてこう口にした。
「保険だ」
「…保険?」
「これがいつか鋼のを助けることになる。…かもしれない」
「……?」
微かに眉をひそめたアルフォンスに、ロイは肩を竦めた。
「…私が助けに行くことは、多分できないから」
彼の告白は低い声でなされた。それは、淡々としているというよりも、淡々と紡ぐ努力をしている声色だった。それだけでアルフォンスにはわかってしまったのだ。ロイが、どれだけエドワードのことを気にかけているのか、ということが。
「准将が直接行ったりなんかしたら、あの馬鹿兄、それこそ本当に手が付けられないくらい暴れるとは思うんですけどね」
「…?」
アルフォンスは冗談めかして言ってやった。ロイのことを薄情だなんて、どうやったって思えるわけがなかった。彼がどれだけ自分達兄弟に情を傾けてくれたのか、そんなこともわからないアルフォンスではなかった。
「なにせ折り紙つきの頑固で意地っ張りですからね。もうあそこまでいくと天然記念物ですよ、ほんと。これが頑固の見本ですって飾っておきたいくらいだ。ああ、あと天邪鬼もあったな」
ロイは一瞬ぽかんとした後、小さく噴出した。面白かったのだろうか。それならばよし、とアルフォンスは続ける。
「らしくないですよ」
アルフォンスは目を細めて小さく笑った。
「あなたらしくない」
「…私、らしくない?」
はい、とアルフォンスは頷いた。
「ボクが知っているロイ・マスタングという人は、もっと自由な人だった。どんなに危険があると止めてもそこへ向かっていくような、気持ちのいい馬鹿だ」
「…馬鹿…」
ロイは呆気にとられた顔でしばし言葉を失った。
「そしてそんなひとをボクはもう一人ばかり、残念なことに知っていまして。彼の名をエドワード・エルリックといいます」
ロイの目はますます見開かれた。アルフォンスは悪戯っぽい表情でロイを見つめる。
「――彼も彼も、まず人の言うことをきく、という機能が最初から欠けているようなひとで。でもね、ボクも含めて錬金術師というのは多かれ少なかれそうなんだろうなとも思ってるんですが。それにしたって、群を抜いてひどい」
「………、すまない」
ロイは何となく目をそらして小さく謝った。まるでホークアイと話しているような錯覚を覚えた。
「あなたはこの国になくてはならない人だと思う」
アルフォンスは目を細めて、くすりと笑った。
「でもね、ボクは実はたいへんなブラコンでしてね」
「………」
「だから、こうも思うんです。あなたは、兄にとっても、なくてはならないひとだ、とね」
アルフォンスの台詞に、しばしロイは言葉を失った。彼はぽかんとした顔で目を見開いて、ただアルフォンスを見返すことしかできなかった。そんなロイに、柔和な顔立ちの青年が笑う。
「准将。ふつつかな兄ですが、どうかよろしく」
「………え、えぇと、…」
ロイはあっけにとられたまま、ああだのううだの唸っていたが、…ふっと肩の力を抜くと、天を仰いでこうこぼした。
「…こういうときは、必ずお兄さんを幸せにします、とでも答えるべきなのかな」
どこまで冗談なのかわからないような調子だったが、アルフォンスは咎めたりせず、ただくすくすと笑うだけだ。
「――だが、しかし…そうか、私らしくない、か…」
ロイはおどけた様子で肩をすくめると、降参、というように両手を上げた。
「…馬鹿の考え休むに似たり、か」
そうして、くつりと喉奥をふるわせたあと、彼は実に楽しげな顔になってそんなことを言った。そうしてグラスを掲げる。
「ありがとう、アルフォンス」
「いえ、たいしたことはありますが」
澄ました調子で言い返したアルフォンスにもう一度笑って、ロイは、一気にグラスを飲み干したのだった。
エドワードが最後に連絡を取ってきたところにまだいるとは考えられなかったが、とりあえずはもう、そこに行ってみようとロイは思った。そうして、帰宅早々に支度を始めた。その迅速さは目を瞠るものがあったが、誰かが見ていたわけでもなかったので、実際は誰に感銘を与えることもなかった。
残念なような気もするが、えてして世の中とはそういうものであろう。
そして最も難しく、厳しい関門。ホークアイ大尉から休暇をもぎ取る、というミッションが最後に残った。実際、それ以外の雑事は大したことはないのだ。もとから生活に手間をかける男でもなかったから。
「……」
電話の前で深呼吸をして、ロイは頭の中で台詞をつなげてみた。シミュレーションだ。情けないような、愛すべき性格であるような…。