銀の弾丸などはない
ロイは前を見ながらそう言った。激しく抗議したかったエドワードだが、思い当たる節が多すぎてさすがに黙るしかなかった。
「ホテルの壁を壊したのも、壊そうと思ったわけではなかっただろう? あれと同じだ」
諭すようなロイの言葉に、エドワードの脳裏には先日きれいさっぱり破壊してしまった由緒正しいホテルの煉瓦の壁が思い起こされた。支配人は笑って補修は結構ですと言ってくれたが、本心はどうだったのだろうかと今更ながらに思った。
壁を元通りにすることはきっとできた。だが、それでもきっと元に戻せない何かがあるのだ。錬金術はけして万能ではない。人間が万能ではないように。
「…壊すことで本当に傷つくのは君だよ。私はそれが嫌なんだ」
エドワードのとりとめない思考を止めたのは、何気ない様子で囁かれたロイの台詞だった。あまりに思いがけないものだったので、うっかり目もとが赤くなってしまった。幸いにしてロイは前を見ていて気付いた様子もなかったが。
理事長室の前に立つと、二人の錬金術師はちらりと目を見合せて。そうして、せーの、と声を合わせて同時に足を持ち上げる。
乱暴にするなとは一体どの口が言ったのか、という話であろう。
だが、なんだかんだで怒り心頭の二人にそんな理屈は通用しなかった。悲しいことに。
「オリバー・サックス!」
二本の足が同時に観音開きのドアを蹴破り、特にエドワードが蹴った方などは蝶番が外れて落ちるような惨状が訪れる。しかしドアの向こうでデスクについていた男は、おや、と軽く目を瞠った後なんと微笑んだのである。これにはさすがのロイも眉をひそめ、エドワードはといえば、こちらは外れてしまったドアを若干思案気に見つめた。思いきり蹴らないとドアは外れないと思ったのだが、それにしたってやりすぎだったようだ。
「思ったより早かったですね」
「当たり前だ。本職でもない連中見張りに置きやがって」
ドアはもう諦めたのか(ロイとしては、実はもう少し考える材料にしてほしかった)エドワードもロイに向きなおり遠慮なく言い返した。
「それは失礼を。…だからこその良心に訴える作戦だったんだが」
「そんなもんはとうにどっかに売り飛ばしちまったよ」
エドワードは肩をすくめ、笑った。その悪人めいた笑い方に、ロイは痛みを覚える。意識してかどうかはわからないが、こんな偽悪的なことをさせているのかと、どうしても胸が痛んだのだ。
だが当人はそんなこと夢にも思わないのだろう。
「大体、人の命を救うだのなんだの、医療に貢献だのなんだのいっといて、人の足止めに患者人質にする奴に言われたかないね」
ぎらりと光った瞳も、醸し出される空気も、確実にくぐってきた修羅場の多さを感じさせた。それもまたロイを悲しい気持ちにさせた。エドワードほどの才能があれば、こんな道をわざわざ選ぶ必要もなかったのに、彼の今があるのはロイのせいなのかと思うとなんだかやりきれなかった。やはりあの日、なんと言ってでも断るべきだったのだ。ロイの駒になりたいなどと、ふざけたことを言われたあの時に。
だが時間を巻き戻す術などはなく、ロイに出来ることはと言えば、今のエドワードを受け入れることくらいしかない。
「…オリバー・サックス。何の意図があってのことか聞かせてもらえるか」
今は感傷に浸る時ではない、と頭を軽く振り、ロイは極力冷静に問いを発した。デスクから立とうともしない男に向けて。
「――すべては医療のため。…すべては、『奇跡の手』のため」
オリバーはまるで悪辣なところなどかけらもない様子で笑った。その笑顔は、どこか狂気を感じさせるものだった。
オリバーが生まれたのは南部の小さな町だった。だが生まれた時から孤児同然に育ち、物心ついた時にはスリやかっぱらいでなんとか食いつないでいるような状態だった。当然病気をしても誰も助けてなどくれなかったし、診てくれる医者などもいなかった。通報されて終わりだっただろう。
そんな生活のせいか、彼は十歳になるならずの頃流行病で生死の境をさまようことになった。早めに治療ができればそんなこともなかったのかもしれないし、せめて栄養状態か衛生状態が良ければまた話は違ったのかもしれない。だが、彼にはどちらもそろっていなかった。面倒を見てくれる親もいなかった。
建物の陰で転がって死を待っている間、とりとめもなく色々なことを考えた。死ぬのだろうか、と妙に冷静に受け止めていた。そして、死ぬのは怖くなかったが、死ぬまでに一度、母親、というものに抱きしめてほしかった、と思っていた。記憶にない頃はわからないが、母というひとも知らなければ、もちろん抱きしめられたこともなかった。だが道行く家族の様子を見ていたら胸が騒いで、だから、もしも夢がかなうならそれを叶えてほしい、と誰にともなく祈っていたのだ。
それは他愛のない、けれども切実な願いだった。叶うはずもないものだったから、余計に。
…だが、彼にはその叶うはずのない幸運が巡ってきたのだ。
ふと気づけば、オリバーは誰かに抱きあげられていた。その時の感触は今でも忘れられない。その温かさも。それは生まれて初めて知ったぬくもりだった。
――もう大丈夫
ふんわりとした声だった。薄目を開ければ、よく見えない目にそれでも鮮やかな、くっきりとした青い瞳が飛び込んできた。そんなにも美しい青をオリバーは見たことがなかった。
しっかりと抱きとめられたことに安堵を感じて、きっと初めて何の不安も覚えずに意識を手放した。
――その時彼を助けたのが、既に医師として名をなしていたファビーだった。彼女はたまたまオリバーの生まれた町へ診療へ行き、浮浪児達が多くいついているというその場所へやってきたのだ。彼女は孤児の救済について熱心だった。後にそれは、自分が子供を産めない体であったことから来る一種のコンプレックスのようなものだったと知れたが、それでもオリバーにとっては初めて与えられた優しさだった。
死に瀕していたはずのオリバーはファビーのおかげで一命を取り留めた。とはいえ回復には時間がかかり、すっかり治る頃にはまるで親子のような感情が芽生えていた。ファビーは賢いオリバーを気に入ったし、オリバーは無条件にファビーを慕った…、
「…それで?」
オリバーのかいつまんだ昔話がひと段落した所で、エドワードは退屈そうに口をはさんだ。ロイは黙っている。
「そのファビー先生をあんたが慕う理由はわかった。だけど、それとあんたの行動が結びつかない」
「そんなことはない」
オリバーはにこやかに笑った。
「私は知っているんだ。鋼の錬金術師」
「なにを」
エドワードは眉をひそめた。オリバーは笑う。
「人体練成は、可能だと」
「……。不可能だし、禁忌だ。それは人間が手を触れていい領域じゃない」
「なぜ? 本当にそう思うのか?」
オリバーは心から不思議そうな顔で問うてきた。それがあまりにも真実そう言っているような風情だったから、エドワードも一瞬言葉に詰まってしまった。
「だが、いつか医療技術、科学技術が発達すれば、それも不可能ではなくなる。…錬金術師の知識があればわかるかもしれないが、生き物はみな細胞から成り立っている」
「…?」