銀の弾丸などはない
「気に病むとかそういうことじゃない。ただ、つらくなる。君が私のことを案じてくれるのも、私のために動いてくれるのもうれしい。だが、つらくもなるんだ」
「…オレ、あんたの負担になってるのか?」
エドワードが眉をひそめれば、違う、とロイは首を振る。だがエドワードも止められなかった。
「なあ、どういうことなんだよ、オレはあんたの重荷になってんのか? なあ!」
「違う!」
ロイに食ってかかってきたエドワードを、…ロイは、ふっと苦しげに目を眇めて唐突に抱きしめた。抱きしめられたエドワードはと言えばつま先立ちを強いられて、呆気にとられて言葉を失うほかなかった。
「違う…」
まるですがるように抱きしめてくるものだから、突き放すこともできなくなってしまってエドワードは困惑する。いったい、ロイのこの行動にはどんな感情が由来するというのだろうか。抱きしめられながら、エドワードは壁の傷を数えていた。
「…約束を、…エドワード」
「………!」
名前を呼ばれてエドワードは目を丸くした。ロイに名前を呼ばれるのはいつまで経っても新鮮なのだ。たまに冗談のように呼ばれることはあったが、そんな時もいつも驚いてしまうのが常だった。
「……。なあ、大佐」
エドワードはしばしの沈黙の後、静かに口を開いた。ロイに抱きしめられたまま。ゆっくりと手をはずして、その背中をそっと包んでやりながら。
「今は、大佐って呼ばせてな。…あんた、オレん中じゃ大佐っていうのがしっくりきててさ。悪いんだけど」
「…別に呼び名なんてなんだっていいさ」
そう、とエドワードは小さく笑った。
「…あんた、覚えてるかなあ。いつだったかさ、オレ、あんたに呼ばれたような気がして顔あげたら、あんたが驚いた顔してオレのこと見てて。でもって、その後なんかすごく嬉しそうでさ」
エドワードは細めた眼の向こう側でその光景を思い出す。
「そんときさ。ああ、オレ、この人の役に立ちたいって思った」
「……」
ロイは驚いたように目を見開いた。なんだかその、虚を突かれた顔が妙に幼くて笑ってしまいそうになる。
「オレ、あんたがオレのこと見て笑ってくれるのがすっげぇ好きで。…そんで、気がついたんだ。ああ、オレはこいつが好きなんだな、って」
最後の部分を照れくさそうな早口で言われ、ますますロイは目を丸くした。夢でも見ているのかと思った。
至近距離では笑うエドワード。ずっと成長を見ていた相手が、今は随分と大人になって、男に言うのも変な話だが本当にきれいになった。それは容姿に限ったことではたぶんなくて、内面もまた色々な経験を経て研ぎ澄まされていったからこその結果なのだろう。
どんなに乱暴な口を聞こうとも、どれほど偽悪的にふるまおうとも、エドワードの根本はきっと変わらない。屈託なく笑う顔の素直さは、きっとずっとかわらないものなのだ。
「…どうしよう」
そうやって考えていたら、ロイの口からするりと、それこそ脊髄反射で言葉がこぼれおちた。
「なにが」
当然尋ねたエドワードに、ロイは思ったままを口にした。歯止めなどどこにもなかった。
「君にキスしたくてたまらない」
「………………はぁ?」
エドワードは正直に眉をひそめた。だがそれは嫌がっているというよりは照れている顔に見えたので(但しそこにロイの願望が少しも混ざっていなかったかといわれると微妙な所だ)、ロイはそれ以上聞くこともせず、ちゅっと目の前の唇に唇をつけた。
可愛らしい触れ方をして離れれば、目の前では金色の目が大きく見開かれ、固まっていた。
ロイは笑って、ぎゅっとエドワードを抱き締めた。うわあ、と腕の中からは驚いたような声が上がったけれど、無視して頬を金髪にうずめた。太陽の匂いがして、ああ、エドワードが今ここにいるのだな、ということを強く感じた。
その後くだらない攻防を経て一応はルーシーいわく「悪い魔法」の本を手にすることができたエドワードだが、中を開いて、読んだことを後悔した。確かに人体練成につながるようなはっとするような理論が時折飛び出してきたりして、それはそれで不安は不安なのだが、全般的にふたりの女性の交換日記のようなやりとりが展開されているので、全部読むこともできずにエドワードはその本を放り投げた。これのためにオリバーは逮捕されるまでに至ったのかと思うとなんだか…、同情する相手ではないが、ある意味同情に値する、とさえ思ってしまった。
結局オリバー・サックスの罪は自分の娘に対する誘拐未遂とブレダ、エドワードを一時的に軟禁したことだけしかなく、被害だけを見るなら軽微なものだった。結局誘拐は未然に防がれたわけだし、二人の軟禁にしても、むしろサックス側から過剰防衛を訴えられる心配をした方がいいかもしれない、という様子で抜け出したので。
だが、どうやら側近でさえ知らなかったようなのだが、彼は独自に人体練成について研究していたようで、逮捕後の調査で院内で亡くなった患者の遺体を勝手に実験に使っていたことなどがわかり、調査にあたっていた人間には衝撃が走った。だが結局、世間に与える影響の大きさを鑑み、オリバー逮捕後グループをまとめていたクレイマンを呼び出し再発防止について厳重に注意するに留まった。留めるしかなかった。
この先、オリバーが現場に戻ることはないだろう。そしてサックスグループがこれ以上規模を広げることもないだろう。
「……」
エドワードはロイの家のリビングで、落ち着かない気持ちを持て余していた。どうにも、あのキスをしてきたの以来、彼の顔をまともに見られなくて困る。だが突き放すこともできないから余計に困っていた。
そうして、ロイは言ったのだ。
そういえば君とは約束していた、君が帰ったら私が手料理をふるまうと、と。
確かにそんなことを言った覚えはあって、…思い出した時は、それを口にした自分を殴りたいとさえ思ったものだ。だが時間を巻き戻すことは誰にも出来ない。言ったことを取り消すことも。
――そんなわけで、エドワードはロイの家に半ば強引に引っ張ってこられ、ふてくされた様子でリビングにいる。逃げ出さないのは、それが男らしくない行為だと彼が思っているからに尽きる。
「…………はぁ」
胸が、緊張で嫌な感じにこわばっていた。息が苦しくてたまらない。いっそ寝てしまえ、と思ったが、興奮しているのか一向に眠くならなかった。なんということだろうか。
エドワードは金髪をガシガシとかきまわす。こんなことをすると髪が乱れると言って弟あたりは怒るのだが、今は怒られてもいいから弟にここにいてほしいような気がした。
「…………」
エドワードは意味もなくクッションを抱きつぶしたあと、とうとうソファに転がった。なんだかおいしそうな匂いがしていて、腹も減ってきた。もはや、緊張しているのか空腹なだけなのかも自分で分からなくなってきた。
「鋼のー」
リビングと隣接したキッチンから呼ばれ、エドワードは渋々顔をあげた。首をひねれば、ロイが楽しげにこちらを見ているのと目があった。
…見ていられなくて、エドワードは目をそらす。…にこにことあまりにも嬉しそうにしているから、直視できなかった。