銀の弾丸などはない
アメストリスではかつてのブラッドレイ大総統が代替わりというか、失脚してからというもの、それまで比べると随分と平和路線に向かってゆるやかにだが動いていた。未だに政治の主導は軍部にこそあったが、どちらかといえば穏健派とされる人々に主体は移り、恐らくはそうしてゆるやかに文人との交流がもたれていって、数十年もすればすっかり文武の均衡は逆転しているだろう。それでいいのだとロイは思っている。
締め付けがゆるくなったことで民衆の生活は以前よりずっと明るくなって、例えば夜歩いていても存外に通行人は多かった。
あちこちを回ってきたエドワードの報告は数日に及んだ。
というよりも、すぐに報告して旅立とうとしたエドワードを、ロイが半ば無理やりに引き止めたというのが正しい。一日に聞く報告の量を区切って、わざわざ数日かかるようにしたのだ。
当然エドワードからは不評だったこの措置だが、エドワード以外の人間からは概ね好意的な反応が返ってきた。特に、現在セントラルの大学の大学院に在学中のアルフォンスと、普段のエドワードの生活を案じていたらしいホークアイ大尉とハボック少尉がその筆頭だ。…ロイを除けば。
昼飯を一緒にとろう、と子供のような顔をして笑ったハボックの誘いをエドワードが断れるはずもなく、ふたりは一旦司令部を出て街路を歩いていた。あんな大怪我などなかったかのようなハボックの動きに、エドワードはひっそりと目を細めた。気づかれないように。
「大将はなんか食いたいもんは? 給料出たからな、今日の昼くらいはお兄さんが奢ってやろう」
胸を張っておどけて言う男の気さくな態度に、エドワードはくすりと笑った。
「そんなこと言っちゃっていいのかよ、少尉? っていうか、オレに奢らせてよ、だってオレ、少尉の復帰祝いちゃんとやってないんだ」
「は? なんだよ、年下に奢らせるわけにいかねーだろ」
肩を竦めてくすぐったそうに笑う男に、エドワードも珍しく素直に笑い返した。
「でもオレ、ほら、少佐相当だから」
「げー、こんな時ばっかそれかよ!」
「こんな時しかつかえねっての! な、なんかお勧めとかねぇの? オレ、セントラルの店全然わかんねーからさ」
「ま、いくつかあるぜ、肉とか?」
「いいねー肉! んじゃ肉にしよっか」
けらけらと笑いあいながら道を行くふたりは、髪の色が似ているのとそのうちとけた空気のおかげで、ともすれば兄弟のようにも見えた。
「なー大将…」
ふと、ハボックは足を止める。エドワードもそれに数秒遅れて歩みを止めた。そして不思議そうに兄のような空気を持った男を見上げる。
「…俺もちゃんと、な、礼とか言いたかったんだぜ、結構」
「…礼?」
エドワードは不思議そうに首を捻った。礼を言われるようなことなどした覚えは特にない。けれどもハボックは何か眩しいものを見るような顔で目を細めて、こんなことを言ったのだ。
「大将があの人の近くにいてくれた。多分、あの人が一番しんどい時にだ。そんで、だから、あの人はちゃんと死なねーでまっすぐ向かってんじゃん、目標っつーか、そういうのに」
「……」
「あ、これ、内緒な! でもな、俺はさほら…、あの人に目ぇかけてもらってな、そりゃむちゃくちゃなとこあるし、横暴な時もあるし、人使い荒い人だけどさ…、でも俺、とかまあ他の連中もだけどさ、あの人に賭けたんだ…」
照れ隠しだろうか、ハボックはエドワードから視線を外してどこか遠くを見上げた。それはまるで少年のような顔で、エドワードはなんだか不思議なものを見るような気持ちで黙って彼の顔を見ていた。
「…俺は、俺らはさ、あの人に会ってさ、あの人が…なんつーのかな、俺頭わりぃから…大将だったらもっとかっこよく言えんだろうけど…、なんつーのかな? でもな、すっげぇいい国になるんじゃねえかなって、あの人についてったら、そういうの見られるんじゃねえかなって、俺はそう思ってんだ。俺らはさ」
はにかんだ男の顔に胸が詰まるものを覚えた。その気持ちはエドワードの胸にもきっとあるものだったから。そして、エドワードの胸にあるのはそれだけではなかったから。
「あいつ、もてすぎだろ」
エドワードはわざと冗談めかして答えて、くるりとハボックに背を向けた。男という生き物が照れ屋であることなど、エドワードにだってよくわかるので。
「――オレも楽しみだなって思ってんだ」
背中越しにエドワードは静かに口にした。
「いつかすっげぇいい国になる。あいつがそうする。そん時オレらがそれを一番近くで見てる。それってすっげぇよな」
エドワードもまた空を見上げた。夏の空は手が届きそうに近い。多分未来とはこの空のようなものだ。いつだって手が届きそうで届かない。青空ばかりと見せて時に荒れることもある。
「…オレも、それが楽しみなんだ…」
胸に宿す痛みをエドワードは知っている。それを口に出してはいけないことも。
だよな、と屈託なく笑うハボックと同じ気持ちだけだったらよかったのに、そう思わないこともない。だから殊更に言い聞かせるように口にしたのだ。
何でもいいから近くにいたい気持ちがあったことに、見ない振りをして。
セントラルでのエドワードの滞在先はロイの家だった。
初めエドワードは盛大にそれを嫌がったのだが、アルフォンスの下宿に転がり込むわけにも行かず(アルフォンスはむしろ歓迎ムードだったがエドワードが難色を示した)、宿を取るといえば不経済だとロイが顔をしかめた。大体君はあちこち破壊するから許可できない、とも言っていた。じゃああんたの家なら破壊してもいいのか、と半ば自棄気味に問えば、保険に入ってるからね、と事も無げに答えられた。そういう問題ではないような気もするし、ホテルだって保険くらい入っているに決まっている。だが、ロイは強硬だった。結局エドワードが押し切られる形で、彼は渋々ロイの家に滞在することになったのである。
「なあ、さっさと報告終わらせてオレ、次回りたいんだけど」
朝食後のコーヒーを飲みながら、エドワードは渋い顔で言った。しかし、向かいで新聞を広げていたロイからは、短く「却下」という台詞が返ってきた。一応は新聞から一度だけちらりと視線を上げてきたが、その目は頑なに拒否していた。エドワードは溜息をついた後背中を伸ばし、訴える。
「でもオレ、こういうの、落ち着かないっていうか…、飽きるんだけど」
「たまには飽きるくらいひとつのところにいるのもいいんじゃないか。君はあちこち回りすぎだよ」
「あんた、馬鹿? それとも若年性痴呆か? オレはあんたのなんだよ、ほら、思い出してみろよ」
呆れた調子で言ったエドワードに、ロイは眉をしかめて新聞を畳んだ。
「君は私の、たぶん、友人だ」
「………は、」
予想外の台詞にエドワードともあろうものが一瞬固まった。そんな青年に、ロイは淡々と続ける。…もしかしたらすこし不機嫌なのかもしれない、何かが癇に障ったのか…。
「君がどう思ってるかは知らないがね、鋼の。君は確かに私の仕事を手助けしてくれる、だが、私が君を駒だと思ったことなど一度もない」
きっぱりと言い切って、彼は困ったような顔をした。