独立前夜
わずかな間、まどろんでいたらしい。
暗闇で小さな物音がして、イギリスは意識を引き戻された。
「――イギリス、もう寝た?」
アメリカがそっと言うのが聞こえた。扉を開けるゆっくりとした音が続き、抑えた足音が忍び入るのが聞こえた。
薄く目を開ける。壁を向いているイギリスには、アメリカの姿は見えないが、廊下から細く灯りが洩れているのがわかる。
イギリスが脱いだものを拾っているらしい、アメリカがまるでいつもと立場が逆になったのを楽しむように呟いた。
「……あーぁ、脱ぎ散らかしちゃって。……寝たのかい?」
ごくそっと呟いたアメリカが、イギリスを覗き込む気配がする。イギリスは目を閉じて眠った振りをした。これ以上、なにか難しいことを持ちかけられてはかなわない。けれどそれは杞憂に終わった。
アメリカの掌が壊れ物に触れるように、イギリスの瞼をそっと覆う。イギリスは一瞬驚いて、目を開けそうになった。
「君はがんばりすぎなんだよ。いつだって限界までやせ我慢して、つらくても誰にも頼らないんだから」
アメリカはベッドに軽く腰掛け、誰にともなく呟く。今は大きくなったアメリカの掌が、イギリスの目許をたっぷりと覆って、その肌の熱さにイギリスは今にも体が震え出しそうになった。
なぜかはよくわからない。ただ自身にも説明不明な動揺が体を占めて、イギリスは掌をぎゅっと握り締めた。眠った振りで、慎重に規則的な呼吸を繰り返す。今気付かれたら、張り続けていたものが脆く崩れる気がした。
アメリカの手が瞼を離れ、前髪を撫でた。そっと額で留まったのは、多分熱をはかったのだろう。
イギリスはこれ以上の沈黙に耐えられず、目を閉じたまま呟いた。
「熱はねぇよ。頭が痛いだけだ」
「なんだ、起きてたのか。あんまりつらいなら薬をと思ったんだけど」
「……お前の家に薬なんかあるのかよ」
「そういえば、そうだな。とりあえず探してみるよ」
「いいよ。変な薬飲まされたらかなわない」
「失敬だな。大丈夫だよ」
「どうだか。でも必要ない」
「本当に?」
「あぁ。寝れば治る」
「でも君、一度ひどい頭痛が起きたら、まともに眠ることもできないだろう」
「…………」
「知らないとでも思ったのかい? 君と何年一緒にいたと思ってるの」
そうだ。何年一緒にいただろう。ずっと一緒にいると思っていた。ずっと自分がアメリカを守っていくんだと思っていた。それなのに。
――お前は、俺を置いていくんだろう。
鼻先に突きつけられ続けていたのは、まさにこのことだ。自分から手を離すのじゃない、アメリカが、アメリカから、自分の手を離れていくということ。その、恐ろしさだ。
イギリスは否応なく目の前に押し付けられた問題に、とうとう目を背けることができず、呻くようにぐっと息を零した。頭が痛すぎて、吐き気すらしてくる。薄い冷や汗がこめかみに浮いて、体が痺れたようにままらなない。
ぎゅっと目を閉じ、イギリスはアメリカに背を向けたまま身体を小さく丸めて縮こまった。
もう、なにも考えたくない。明日になれば、明日こそは、ちゃんと向き合うから。だからどうか今だけは、逃げるのを許して欲しい。考えることも放棄して、ただ、暗闇の底に意識を忘れてきたい。懇願するように掌を握り、額に押し付ける。
「……寝るよ。だからお前ももう寝ろ」
「そうか。ならそうするよ」
アメリカは軽い口調でそう応じた。けれど立ち上がろうとせず、一度は離れた掌をまたイギリスの目元に当ててきた。
「アメリカ」
「昔、こんなふうにしたことがあったね。イギリスが頭が痛いって言い出して、俺はなにしていいかわからなくて、せめて眩しいのを遮ってあげようって思ったんだよ」
「……あぁ」
「あの後、イギリスは寝ちゃって、俺はいつまでこうしてようか、背伸びした足が疲れて、だんだん上げ続けた腕が痺れて、結局イギリスの隣で一緒になって寝ちゃったんだ」
そうだった。気付いたら部屋はすっかり暗くなっていて、カウチの隣で、アメリカが小さく丸まって眠っていた。イギリスが抱いてベッドまで運んだが、アメリカは少しも目を覚まさなかった。
そのとき、満足げな顔で言ったアメリカの寝言を、イギリスは今でもよく覚えている。
――おれは、ひーろー、なんだぞ……。
あどけない顔で眠っていたアメリカは、あれからみるみるうちに育ち、今では身長もイギリスを追い越した。そうなるようイギリスが便宜をはかったことも一因ではあるだろう、けれどアメリカは国として自身がそう望み、そうなるべくして目覚しい発展を遂げつつあった。その勢いはイギリスの予想をはるかに上回り、いまや小さかったアメリカなど、遠い記憶になりつつある。
それでも。イギリスは思い出さずにはいられなかった。
小さな手。ころころとまろぶように駆けてくる足音。イギリスの腰ほどまでしかない体を、懸命に背伸びして覗き込んでくる姿。ぴょこんと跳ねて揺れる、さらさらと癖のない髪と、つぶらな青い目。その全てが自身に向けられる、生まれる責任に伴うあまやかな情緒。忘れようとして忘れられるものではなかった。
イギリスを守ると言ったアメリカの言葉に、イギリスはアメリカを守ろうと思った。アメリカが自分はヒーローだと言い続けられるように。いつまでも笑っていられるように。かなしいこともつらいこともアメリカに寄せ付けないように、自分が、傍で。
けれど、そういうことすら、お前は奪っていってしまうのか。
アメリカはいずれ自身が望むように、強く優しい正義の味方になるのかもしれなかった。それでも、もしこの手から飛び立っていってしまうなら、いっそお前はヒーローになんか、ならなくてもいい。俺だけのヒーローでなくなってしまうというのなら――。
イギリスは醜い身勝手を持て余し、自嘲に唇を歪めた。
結局自分は、自分を兄と慕ってくれた小さなぬくもりを手放したくないのだ。
わかっていた。ただそれだけ。けれど、それだけのことが、こんなにもイギリスの身を切りつける。
握り締めた掌が冷えて、身体中が痛いのか痺れているのか、わからなくなる。
眩暈のような感覚の覚束なさは、唯一アメリカの触れあわせた肌の熱さに繋ぎとめられている。
イギリスは震えそうな息を吐いて、重い指を解いた。自分の目元を覆うアメリカの掌に触れる。アメリカが少し驚いたような間を置いて、小さく息を吐いた。
「もっと色々言って、頼ってくれたらいいのに。君があんまりなにも言わないから、俺そんなに頼りないかなって、いつも不安になるよ」
柔らかい口調に、イギリスは小さく身動ぎをした。
多分、俺はお前が思うよりずっとお前を頼っているよ。でも、だから、こんなに苦しいんだ。
「アメリカ」
掠れた声で呼んだ。なにが言いたいのかも、よくわからなかった。ただ、口を突いて出た。アメリカ。アメリカ。アメリカ。頭も体も、言葉にならない気持ちでいっぱいになる。
「なんだい」
「……アメリカ」
「うん」
「…………」
「つらい?」
首を振る。つらいのも苦しいのも、偏頭痛のせいなどではない。
「なんでも言ってよ。ここにいるから」