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墓標

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 だがそれもすぐに消え失せ、微笑に変わった。
「お前の手にかかるなら……」
 本望だ。
 うっとりと酔ったように紡がれる声音はとても嬉しそうで。
 斎藤は表情を曇らせた。
 緋村は逆刃刀を握ったままの腕を静かに下ろすと、瞳を閉じた。

 男が青年を静かに見下ろす。
 胸の澱みに気付かぬふりをして。

 緋村はただ黙って最期の時を待っていた。
 男の腕なら一瞬で済むだろう。考える間もなく、終わる。
 やっと…終えられるのだ。
 永かった生に。
 このままこの男の手にかかって果てられるなら…。
 それでいいと思う。
 いや…そうする事こそが望みだったのだ。
 それはきっと、遠い昔からの…稚拙な願い。
 

 長い沈黙の後、静かに空気が動いた。
 朱い髪に彩られた首筋に、骨ばった男の手がようやく触れたのだ。
 無骨な手は青年の首筋を愛おしむように優しく撫で、ゆっくりと力を込めてゆく。
 気道を圧迫され、息苦しさに呼吸を乱しながらも、緋村はまったく抗わなかった。
 そして、最期の情景を焼き付けるように薄目を開く。
 硝子のような瞳は朱に染まり…自身を手にかける男を映し出す。

 緋村はふわりと微笑った。
 それは儚く、だが何よりも幸せそうで…。
 こうされる事こそが彼自身の望みのようだった。

 それを目の当たりにした男は、突然腕の力を抜き青年を解放した。

 ガシャン、と硬質な音が響く。

「……っ、……!」
 逆刃の刀が地に転がり、同時に支えを失った身体も崩れ落ちる。大量の呼気が肺に流れ込み、朱い髪を揺らしながら青年がむせた。

 呼吸を整えながらも、途中で投げ出された事が不思議で斎藤を見上げる。
 男は苦々しさを滲ませたまま、緋村を見下ろしていた。
「さ、いとう……なぜ…」
 喉の痛みに眉をしかめながら、緋村は泣き出しそうな顔で問いかけた。
「…………」
 斎藤は応えない。
 黙ったまま、未だ緋村の傍に在る逆刃の刀を手にするだけで。
 ヒュッ、と風の音が鋭く響く。
 逆刃の切っ先は、しゃがみ込んでいる緋村の首筋にピタリと当てられる。僅かでも動けば柔肉は破れ、鮮血が迸るだろう。
 青年の喉が鳴った。

「──斎、藤…」
「どうした。怖いか…?」
 静かに囁かれるそれは、どんな睦言よりも甘く。
 だが、先程までの恍惚とした青年は何処にもいなかった。
 目を伏せ、唇を噛み締めている。
「だめ…だ」
 小柄な身体が小刻みに震えている。
「何が駄目だ? ──俺がほんの少し力を込めて引くだけで、お前の望みは叶うだろう?」
 諭すような声音に、緋村の身体は一層激しく震えだす。
 それは死への恐怖ではなく。
「駄目だ…。頼む、から…それだけは止めてくれ…!」
 生への執着でもなかった。
 あるのは、ただ刀への想い。
 自身に科せた誓いだった。
「この刀は…血に汚せない…。これだけは……」
 頬から幾筋もの涙が伝う。
 緋村は俯いたまま言葉を紡ぐ。
「…すまない…。やはり、俺には……」
 斎藤は刀を引かぬまま、言葉を遮るように口付けた。
「 ! 」
 ひどく傷付いている青年が痛ましかったからか…。
 だが、こうなって何処か安堵した自身もいて。
 不可解なその感情に、男は知らぬ振りを決め込んだ。


 舌を絡ませ、深く深く口付ける。
 互いに何も考えられないくらいに。

 竦んでいた青年の身体から、力が抜けていく。

 その間も、切っ先は青年の喉にピタリと当てられていた。
 互いの熱い口腔内と、底冷えのしそうな刃の硬質さ。
 相反する感覚が、より一層彼の神経を鋭敏にさせる。
「…ン……ぅ…」
 貪るように口付けを交わした後、名残惜しそうに離れる。
 同時に、斎藤は突き付けていた刃も引いた。

  ──ガシャン

 無機質な音と共に、青年の愛刀は再び地に転がった。
 荒い呼吸を整え、緋村は足元に転がるそれをぼんやりと眺める。
 手を伸ばし、ゆっくりと愛刀を引き寄せた。
 今までと同じく、一点の曇りのない刀身に安堵したようだった。

 男は黙って見ている。
 何も言わずに、ただ傍にいた。

「斎藤…もう…行ってくれ…。煩わせて、悪かった…」
 少し落ち着きを取り戻したらしい青年が振り絞るように言葉を紡ぐ。
 だが男は動かない。
「───?」
 不思議そうに緋村が顔を上げた。
 斎藤の視線はただまっすぐに青年と、刀に向けられている。
「その刀…封印するつもりだったのか?」
 ふと男が呟いた。
 ビクリと緋村の肩が竦む。
「……ああ。抜刀斎(オレ)と共に…ここに…」
 だけど、と緋村は言葉を続ける。
「駄目だった……」
 最初にどちらか、と言ったのは青年の精一杯の虚勢だったのかもしれない。
 葬られる者は決まっていたのだ、最初から。
 自嘲気味な笑みを浮かべ、緋村は空を見上げた。
「俺はもう、何も出来ない…。 剣を振るうことも、俺自身の始末を付ける事さえも」
 自身で立てた、不殺の誓い故に。
 何よりもこの手で奪った命の重さ故に───。
「──滑稽だろう?」
 青年は微笑っている。これ以上ない程に深く哀しみを湛えて。
「…それで、俺にどうして欲しい?」
 同じ剣客としての同情からなのか、斎藤の声音は柔らかく、労わりを含むものだった。
「……、……っ…」
 青年は、何かを言いかけ…口を噤んだ。
 拳を硬く握り、顔を伏せる。一瞬の迷いの後、意を決して言葉を紡いだ。
「俺の事を…、忘れないで…くれ…。人斬り抜刀斎の、その存在を。それだけで俺は……」

 他の誰が忘れても構わない。だから……。

 今にも泣き出しそうな青年の声音に、男は目を細めた。
 俯いたままの青年の頬に手を添えて上向けると、低い声で囁いた。
「おまえの最期、俺が見届けてやる」
 男の言葉に緋村の瞳が大きく見開いた。
 ポタポタと地面に水滴が落ちる。男を見つめる青年の瞳からは、透明な水が溢れていた。
 留まる事のない涙を零す青年に、男はもう一度唇を重ねる。
 そっと触れるだけの口付け。

 頬に添えられた男の手に、緋村が自らの手を重ねる。
「すまな…い…」
 嗚咽を噛み殺して、紡がれる言葉は意外なもので。男が青年を見る。
 緋村は零れる涙を拭いもせず、言葉を続けた。
「もう…お前を殺せない…。──約束、したのに……」
「───…」
 それは遠い幕末(むかし)に交わしたものだった。
 互いの息の根を止めることを誓い、刃を交えた。
 何にも代えがたい、哀しいまでに神聖な誓い。
「……そう思うなら、誰にもその首をやるな。──俺以外には、誰も」
 男の手が青年の頬に伝う涙をそっと拭う。
 緋村はただ静かに頷いた。
「約束…する」
 ほんの少しの笑みを浮かべて。・

 緋村は握り締めた逆刃刀の刃を返し、そのまま首筋へと当てる。
 そしてゆっくりと引いた。
 地面に幾筋もの朱い筋が乾いた音を立てて零れ落ちてゆく。


 青年が愛刀で切ったものは、自身の長い髪だった。


 血の色でもあるそれに、男は目を細めて見入る。
 不揃いになった髪を撫でてやると、緋村はとても擽ったそうに肩を竦める。それはとても嬉しそうで。
 男も穏やかに笑んだ。


作品名:墓標 作家名:木土