ペーパー再録_5
意識を沈めていたのは僅かな間だった。
あの頃見上げた陽の光は、今は厚いガラス越しにその光を注いでいる。
傍らの時計に目をやるが、まだいくらも進んではいない。本当に僅かな時間だったようだ。
握っていたままのペンを机に転がすと、彼は一つ息を付いた。
…何故今になってあの頃の事を思い出すのか。
トントン、と軽いノックの音に、再び何処かへ飛びそうになっていた意識を引き戻される。
「入れ」
「失礼しまー…って、うおお!?」
扉を押し開けた長身の男が頓狂な声を上げた。
うるさいなーと思うより先に、その彼の持つ書類の分厚さの方に先に目がいき、うんざり気分に最高に拍車が掛かった。
自然と目が据わっても、しょうがないと許してくれるだろう。
「・・・この状況でソレを持ってくるとは嫌がらせか?ハボック・・・」
「いやオレ普通に書類運びしただけなんですけど。・・・つーより何なんですか、この部屋。暑さ尋常じゃないんですけど…」
つーか何度だ、ここ。
何もしていないというのに、立っているだけでどっと汗が噴き出してくる。
「空調がやられてるそうだ」
「せめて窓開けませんか」
「余計鬱陶しい事になった」
いつも以上に端的な返答にふと机の上を見れば、ちゃんと揃えておいたはずの書類が無造作に積み重ねられている。
風で飛ばされたか。そりゃ紙だしな。
納得。
いつもの所定位置で面倒そうに書類を見つめる上官は、見た目普通と変わらないように見える。
何で汗かいてないんだろう。
…というか汗出す水分すらもうないとか。
そう言えば、微妙に目が泳いでるような…。
「なんだ、用があったんじゃないのか」
「人命救助優先しようかと。…アイスコーヒーでいいですか?」
そう聞けば、僅かな沈黙の後。水、と一言だけ返ってきた。
運んできた水を一気に空けてしまうと、ようやく普段の大佐っぽく見えた。
水分を補給したらしたで、次はこの気温が沁みるのか、ぐったりと椅子に背を預けてしまう。書類はもう見る気すらない模様だ。
「マジで脱水症状なりますよ、ここ」
「動く気もなくなるんだ」
「まだ大部屋の方がマシですよ、コレじゃ」
「移動させるのが面倒くさい」
どうせ運ばせるだろ、誰か呼び付けて。とは思ったが、今の沸点の所在地の判らない上官にツッコむのはやや危険だ。黙っておいた方が身のため。
「…空調って、自分で直せないんですか?ほら、錬金術でぱぱっと」
「ラジオや何かと一緒にするな。中身を分解するなりして構造を理解しなければ再構築出来るわけないだろう」
理解しないままやれば、外見は空調っぽい何かが出来上がるだけだ、とか何とか。何事かぼやいているようだが微妙に声が届いてこない。
午前中の業務だけで、余程消耗したらしい。
「はぁ、そんなもんですか。何でも出来そうに見えて結構不便なんですね」
「手順も何も踏まずに出来るのは、魔法というんだ」
「…やけにからみますね。どうかしました?」
問い掛けてくる声が、少しばかり遠い。
体温を軽く上回った空気の暑さが、奇妙な感覚で過去を呼ぶ。
彼は目を閉じた。
あそこの風は、こんな重くない。
湿気のない、乾いた熱い風だ。
…違う。
ここは、違う場所だ。
目を開けて視線を流せば、砂色の髪をした部下が僅かに眉をよせてこちらを見ている。
「・・・どうもこうもない。昨日から突然やたらむし暑いわ、久々につけた空調は壊れて役に立たんわ、無駄な書類は多いわ。いかに温厚な私でも文句の一つも言いたくなる」
「温厚・・・」
「つっこむ所はそこじゃない、少尉」
「だって書類は昨日残して帰った誰かさんの…」
「・・・・・・。」
ゆっくりとした動作で掲げられた上司の手が、見慣れた赤の印の刻まれた白に包まれているのを見て取って、ハボックは一歩後ずさって敬礼を一つ。
「何でもありません、サー」
「よろしい」
・・・ああ、何で今日中尉午後勤なんだろう。
この厄介極まりない上司の、最大クラスの弱点である女性尉官がいない時、補佐に回るのは大概自分かブレダだ。現在、その相棒は東の支部に出張中なので自然とその役は自分に回ってきた。
回ってきたは別に構わないが、何もこんな暑さにやられてご機嫌ナナメな時に回ってこなくったって。
…きっと、こんなだから危機回避能力が低いとか言われるんだ。
ぐるぐると取り留めもなく思考が回る。
・・・本当にマズイんじゃないだろうか、コレは。
暑さは正常の思考能力を狂わせる。
ほんの少しの時間しかいないハズの自分がコレでは、朝から詰まってた大佐なんて…。
「・・・決めた」
「は?」
「お前、この間演習やりたいと言ってたな」
「はぁ、まぁ。…使えそうな新人来たんで実戦形式で…」
「北の練兵場空けてやる。思う存分やってこい」
「ええーッ!?」
俄然何かやる気になったらしい上司は、いきなり未処理の書類の山をごそごそと漁り出す。
「ちょッ、いきなり!?てかこんな時に!?」
「うるさい。私だけこんな暑い目みてるのが腹が立つ」
「いやいやいやそんな理由であんな灼熱地獄に放り込まれてたまりますか!って聞いてます!?わー!掘り出さなくてイイですって!是非決裁は明日以降で!」
「喧しい!声でかいんだお前は!」
叫ばせてんのは何処の誰だ!
…と心底ツッコみたかったが、それよりもブツの確保が先だ。
上司はまだ諦めてないらしく微妙に緩慢な動作でごそごそと未処理の山を崩している。何とか堀り返されるより早く、あの紙を確保しなければ。
ぶっちゃけ、後で自分の部下たちに何言われるか。
基本的に対荒事用の人員が配置されてる己の小隊の面々は、気の良い連中ではあるが荒っぽいし、遠慮がないのだ。(後者は上の影響がないとは言い切れないのは置いておいて)
「新兵連中に今の時期にいきなりコレってキツイですって!」
「現場出れば一々そんなもの気にしてられるか。実戦と言うからにはこのくらいやっておけ」
「あ・の・で・す・ね・ー…!」
「――――お前、いい加減に私が言った事は必ず実行するタイプだという事を覚えておいた方がいいぞ」
尚も言い募ろうかというハボックの台詞をニッコリ、と擬音付きのそれはそれは麗しい微笑みで遮っておいて、彼はきっぱりと言い切った。
「それは身にしみて判ってますけど…」
ふー、と全身で溜め息を付いて落とした視線の先。
「あっ」
ごそごそと取り払ったファイルの山から覗く、見覚えのあるバインダー。
別の山を崩していた耳敏い上官が振り返って手を伸ばすよりも一瞬速く奪い取る。
そのまま、はいバンザーイ。
「・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・ハボック」
「・・・はい」
「私が、鋼のと同じコンプレックス抱いてなくて良かったな」
「・・・・・・はい」
ああでも、噛んで含めるような台詞が痛い。更に視線がすっごい痛い。
元々机に隔てられて、両者の間にはだいぶ距離があったのは確かだが。
長身の男が反射的に頭上に掲げ持ったバインダー。
届かない。そりゃもう、絶対に届かない。
平均身長くらいの自分がコレでは本当にこいつどんなデカさだ。
反射的にやってしまった己の行動に、そのデカイのはぱっきり固まってしまったようだった。